「社会人」って誰だよ?「社会に出る」ってどこにだよ? 意味おかしくない?

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「社会にでる」という言葉があって、これが日本ではよく使われている。

学生の頃なんか、「社会に出たらそのままでは通じない」とか「社会に出たら厳しいぞ」とか度々言われた。

この「社会」とは何のことだろうか。

普通の大人が言うこの「社会」の意味は「自分の人生を働くのと競争することに使う人たちの集まり」のことなんじゃあないか。

「社会が厳しい」っていうのは「働くのは厳しいぞ」ってことと実感としてはほぼ同義だと思う。

この「働く」っていうのはしかも、月~金、朝から晩まで働く状態がデフォルト。

もっと給料が欲しくて昇進したいと思えば、これよりさらに働かなくてはいけないし、そうしなければいけない状態に追い込まれている人も多い。

でも考えてみると子供の頃に属していたもの、あるいは学生が属しているのは、「社会」ではなく何なのだろうか。

学問をするのは幻想の世界なのか。

また、働いていない人は社会に属していないのか。

「社会」とはどこにあるものなのだろう。

今日は、そのあたりを考えてみる。

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「社会人」や「社会に出る」の「社会」の意味を辞書で調べてみる

「社会」の意味を辞書で調べてみる。

大辞泉ではどうだろうか。

1.「人間の共同生活の総称。また広く、人間の集団としての営みや組織的な営みを言う」

2.「人々が生活している、現実の世の中。世間」

3.「ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。また仲間意識をもって、自ら他と区別する人々の集まり」

4.「共同で生活する同種の動物の集まりを1.になぞらえていう語」

大辞泉

う~ん、ここにはちゃんと当てはまる定義がないな。

大辞林でも調べてみた。

1.「生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与えあったりしている人々のまとまり。またその人々の相互関係」

2.「同じ傾向・性質、あるいは目的をもつ人々の集まり」

3.「(自立して生活していく場としての)世の中。世間。「学校を卒業してーに出る」」

4.「社会科の略」

大辞林

これか。

「社会人」や「社会に出る」、という意味で使われる社会は大辞林の3.にある「(自立して生活していく場としての)世の中。世間」を指しているんだろう。

そして、よく言われる言葉で「社会」というのは「厳しい」らしい。

小さい頃から、「社会は厳しいぞ」っていうのをいたるところで聞かされた。

そんな「社会」を自立していきていくのは、「厳しい」道しかないかのようにも思わされる。

本当にこの「社会」を自立して生きていく方法は、多くの「大人」が言うような「人生=身を粉にして働く」みたいな方法しかないのか。

想像するだけで辛そうだし、なによりおもしろくなさそうだ。

ストレスは病気の原因になるんだから、それだけ仕事していたらストレスが溜まって病気にもなりやすくなるだろう。

しかも、そんな人生をあと何十年と繰り返して、「人生=働く」を血肉化していってリタイアしたらどうするんだろうか。

リタイア後の体力も気力も落ちた状態から、やっと人生を楽しむことに使えるというのも酷ではないか。

この厳しい「社会」を生きるには辛くても身を粉にして働くしかない?

だが、この厳しい「社会」で「人生=働く」みたいなを盲目的に信用するのもどうだろう。

だいたいほとんどの大人って言うのは、義務教育課程を通じて前習えの教育を一辺倒に受けていて、社会で言われている言説を自分で確かめもしないで、みんながやっているというだけで信用しているだけのようにも見える。

日本以外の国に行ってみればよりわかるのだが、この世界には他にも生きていく方法はあるはずなのに、週5日あるいはそれ以上、会社で働くことを当然と思いそれを実行する人が多すぎるから、こんなに「社会が厳しい」状態になってしまったのである。

だいたい「社会が厳しい」と感じているのなら、なぜもう少し楽な社会を作ろうとしないのかが疑問だ。

日本は戦後に莫大な財産を築いたといわれているが、莫大な財産があるうちに楽な社会を作ろうとしてきたのだろうか。

富があるうちに、税金を使って本当に豊かな社会になるための仕組み作りをするのがまっとうな国だろう。

なのにも関わらず、なぜか「社会は厳しい」という考えをさらに推し進めてきた結果が、「ブラック企業」が蔓延る中で「社蓄」のように働くのが普通かのような現在の日本を作ってしまったのではないか。

大きな会社の社長などの資本家と呼ばれる人たちが、労働者を使い捨てでこき使い続けられるように、残業代を払わない会社が多かったり、それが指摘されれば、とりあえず体裁として会社の電気は消して仕事を家に持ち帰らせたり、結局は人手に対して業務の量が多いという状態は変わっていない。

雇用保険の失業手当だって、自己都合だったら3ヵ月後からしか払われないのとかも、働かせ続けるための方策の1つなんじゃあないかと俺は思っている。

しかも労働条件を話合うための機関である「労働組合」もほとんどの会社では機能しなくなってしまった。

個人で会社組織に異議申し立てを行うには解雇や不遇にされるリスクも大きい。

そうなると嫌でも会社に縛られる人たちが多くなりすぎて、しかもその自分の状態が辛すぎるから、「苦しい状況でも働く」以外の方法で生きている人たちが許せなくなる

だから、生活保護をはじめとして、働かない人たちにいろいろな規制をかけたくなるのだろう。

これは実に巧妙な仕掛けなのかもしれないが。

海外では「社会人」や「社会に出る」という表現を聞いたことがなかった

ヨーロッパの小国で生活していたとき、先のような意味での「社会」が用いられた「社会に出る」とか「社会人」という表現を俺は英語で聞いたことが無かった。

それがたまたまだったのか、俺の英語力が拙かったからなのかわからないが。

俺がいた国は、大学を卒業しても仕事につけなければ簡単に「生活保護」みたいな給付金を受給できたし、そうしている人を老若男女問わずよく見かけた。

「生活保護」という名前ではなかったし、給付金に対する考え方から違うのかもしれない。

その金額はというと、1週間に日本円換算で2万円と少しはもらえていたようである。

なので芸術系の学校の卒業なんていうのは、そんなに仕事はないし、簡単にはお金をかせげないので、生活保護をもらっている人は多かった。

大学の学費だって国から補助が出ていて日本よりずっと安く、アルバイトしていれば簡単に払えるくらいの金額。

生活保護をもらいながら制作している中年芸術家もいた。

(日本みたいに芸術っていうのがお金にならないからといって無駄なことだと思われていない。芸術は社会の価値観を拡げる力になる。日本はそういう考えが弱くて経済オンリーの価値観になりすぎたんじゃないか)

このお金をもらいながら、自分でネットでコツコツと仕事をして独立した人だっている。

こういうお金が生活するのに必要なくらいもらえれば、酷い労働環境ではわざわざ働こうとは思わないので、ブラック企業みたいな会社には人は来なくなる。

(自国の通貨が安いために通貨が高い国に働きに来ている出稼ぎ労働者は、違法で働かせられているケースもあったが、ニュースで大きな問題になっていた)

ヨーロッパには小国でも社会福祉が、日本やアメリカに比べたらかなり整っている国が多い。

産業の規模も会社の数も、日本に比べたら全然少ないし、あきらかに労働時間も短いし、なんでこんなことができるんだろうと思ってしまった。

日本の労働者は有休もちゃんととれないし、あれだけ長時間労働させられているのに、社会保障の面でなぜこんなに差がつくのだろうか

社会保障が厚い国は、税金が高いからっていうのはすぐ思いつく答えだけれど、教育は大学までほとんどお金かからないし、低所得者の医療はほぼ無料だし、ちゃんと見返りがあるなら払ってもいいと思う人は少なくないだろう。

日本は、税金を払っても、金のない人に分配される比率が低いんじゃあないか

下の記事によると日本もすでに「消費税」に関しては実は北欧並みに高いらしい。

日本の消費税収は福祉国家デンマークより多い、高所得層より低所得層から4.5倍も収奪する消費税増税は生活を破壊するだけ
財務省が消費税を国際比較するときのグラフが以下です。     上のように、消費税率だけを国際比較す

北欧並みに、全国民に同じようにかかる消費税率が高い上、所得によって税率が変わる累進課税も、すこし下の記事にあるみたいに所得税でいうなら100億もらっている人でもそのうちの13.5%しか払っていないという。

庶民が払え。日本人富裕層の納税額が米国の半分以下という不公平 - まぐまぐニュース!
前回の記事「元国税が暴露。『消費税は社会保障のため不可欠』が大ウソな理由」で、消費税がいかに欠陥だらけなものかを専門家目線で解説してくださった、元国税調査官で作家の大村大次郎さん。今回は、自身のメルマガ『大村大次郎の本音で役に立つ税金情報』...

金持ちはお金を貰ってる量が全然違うんだし、生活しても相当な金があまる。

ということは金持ちでも、自分の稼ぎから引かれる税金の金額がそんなに大きくないので、よりお金を貯められる。

それが子孫に受け継がれていって、お金によって教育するのも何か商売を始める上でも境遇はかなり変わるので、結局お金持ちは世代を越えて固定されてしまう。

しかも、一部上場とか言われて「ちゃんとしている」かのように見えている大企業は、「パナマ文書」で露呈されたみたいに、タックスヘイブンをつかって税金を取られるのを逃れてるという現実。

「パナマ文書」公開で発覚!税金を払わない日本人「大金持ち」リスト(週刊現代) @gendai_biz
税率が著しく低いタックスヘイブン。存在は知られていたが、内情は長らくブラックボックスのままだった。そこから飛び出た、膨大な内部機密文書。ついにパンドラの箱が開く—。

なんなんだろうねコレは。

知れば知るほどにアホらしくなる。

こういうことを踏まえても、低所得者の救済のための日本の生活保護を削るのなんて、マジでありえないわけ。

税金払わないのはダメっていう雰囲気を、いろんな手を使って作っておいて、経団連とかいろいろ団体を作って政治にロビイングしている企業や、その上層部の人たちのような金持ちが税金逃れしてるっていうんだから、アホみたいな話。

「財源がない」なんて大企業の上層部と政治家がグルになって作った嘘でしかないと思いませんか。

ちゃんとお金があるところからとって、いらない支出を省けよと思う。

すごく当たり前のことを言ってるのに、それができないのは権力をもつ人たちが、おいしい思いをしているからだ。

話がすこしズレたけど、「社会に出る」という文脈の「社会」が「(自立して生活していく場としての)世の中。世間」という意味なのだとしたら、社会保障と税金の透明性がマシな国には「社会に出る」なんて言葉はわざわざ必要ないのだろう。

だって、生まれた瞬間から、その「社会」に存在すること、生きることが保証されているのだから。

本来、すべての人が「社会人」であり「社会」に出ている

“身を粉にして働く人間だけが存在を容認されるような社会”

これが「社会は厳しい」とか「社会人」という言葉が使われるときの「社会」の定義なんだろう。

だが、よく考えてみれば「社会」というのは本来この定義のような狭い括りではないんじゃないかと俺は思っている。

先の「社会」の定義は、俺の持っている大辞泉にはのってなかったし、大事林でも3番目に出てきたものなので、もともとの意味ではなかったんじゃないかなと推測している。

本来の社会の意味っていうのは、最初にも書いたが、大辞泉の1番最初に出てくる「人間の共同生活の総称。また広く、人間の集団としての営みや組織的な営み」とか大辞林の「生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与えあったりしている人々のまとまり。またその人々の相互関係」だったんだろうと思う。

それが本来の意味だとするなら人間は生まれたときから「社会」に出ているのではないか。

ほとんどの人は家族という小さい「社会」に最初は属すことになるし、保育園や幼稚園、学校だって1つの「社会」だ。

義務教育を経ても、地域「社会」、友達の「社会」など何かしらの「社会」に属している。

会社だけが社会ではないし、会社に週5で勤めなくても、無職だってニートだって、家族とか友達とか、常にどこかの「社会」には属している。

家族なんていなくとも、1人で引きこもっていたとしても、ネットで人と繋がっていたりするわけで、ネットの「社会」に属している。

そんな定義が、いつのまにか日本にいつの間にか蔓延した「労働観」と相まって、「社会」の定義が狭められてしまったんじゃあないのかな。

「社会に出る」というのは、学生から労働者になったタイミングのことを指しているし、「社会人」というのは学生から労働者になったときに使われ始める。

これらの意味での「社会」はあたかも「会社で働いている人」かのような意味で使われていて、それ以外の人は、「働かないダメ人間」みたいに「社会」の外の人みたいな扱われかたになってしまう。

だけど本来は誰もが「社会人」だ。

だいたい、どんなところにも「社会」というのはあるのが実情だし、どんな「社会」に自分がいてもいいはずだ。

なのに「社会に出る」ということ=「会社で身を削って働く」=「この世界で生きること」になってしまっている。

「社会に出る」という文脈で使われる「社会」というのは、価値観をものすごく狭める呪文のような言葉なのである。

「社会」の意味を狭めて、入れない人を増やす意味がない

「社会」というのは、そんなに狭い意味ではなかったのに、時代の変遷の中で意味が狭められてしまったのではないか。

だいたい「我慢して辛い思いをして働くこと」が当たり前でなくてもいいはずである。

会社が「社会」のすべての人がいてもいいのだけれど、そうでなくてもいい。

居づらい「社会」にいる人は自分で居場所を作る方向に少しずつ動いていくのも1つの手だ。

生活保護はもらいづらくベーシックインカムもない日本では、生きにくい人たちも多いかもしれないが、そういう人が自分の居場所を作れなければ、「社会」はどんどん狭い意味での「社会」の中に閉ざされてしまう。

働かない人たちを「社会」に入れないのは、排除でしかない。

アリだって下のウィキペディアの頁にあるように、働くアリばかりでなく2割は働いていない

働きアリの法則 - Wikipedia

アリと人間は違うっていう人もいるかもしれないけど、人間だって所詮、動物の一種。

他の国と比べても、ヨーロッパの国では社会福祉の手当てが厚いのもあって、日本ほど無職でいることで排除されていると感じることはない。

東南アジアの国に行ったって、特に仕事をせずに、その変をふらついてる男をよく目にする。

どうして日本人はここまで「働く」ことにこだわるのだろうか。

働きすぎて、自分が苦労しているから、そうでない人が許せないだけにしか俺には思えないのだけれど。

こういうことを言うと税金云々のことを言ってくる人がいるけど、それを言うなら税金が何に使われているのかを知っておくのが前提条件だろう。

社会保障に使われているのが、一般会計と特別会計の合計した何割なのか。

しかも特別会計は国会のきちんとした承認を受けていない、用途もはっきりわからないお金である。

はっきり用途がわからないものに、お金を払っていて、文句を言わないほうがおかしいのではないか。

そういうことを踏まえた上でなければ、税金を払っていないなら生きる権利がないとかいうのは、中身がないと思う。

(ちなみに、前の記事でも書いたけれど、パナマ文書でバレたみたいに、日本の大企業はタックスヘイブンを使って税金を逃れているんですが、そちらはいいの?)

働きたくない人も規格外の人間も一緒に溶け込めるのが「良い社会」では?

世界には、様々な「社会」があって、いろんな生活の知恵がある。

日本における世間で言われている「社会」での人生だけが絶対ではない。

他の国を旅して、この世界に生きる様々な人を見たり、話をしたりすれば、それはすぐに実感できるはずだ。

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が、学校教育とマス・メディアによって広められる情報によって、そしてそれを人間同士が共有しさらに広めることで、社会をそういう風に定義が一般化し、そう思い込んでしまうのである。

世間の「社会」それしか生きていく世界がないと思えば、そうでない人は「ダメ」という烙印を押されたかのように思うし、生きていても息苦しいと思う人もいるだろう。

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天気があまりよくない日が何日か続いた。 曇天が続いたり、雨がパラついたり。 外にいくのが億劫になるし、洗濯物は乾かないし、雨は嫌だなぁと天気予報を見ながら思っている自分がいる。 しかし雨がふらなければ、植物は成長しないし、動物だって飲み水を...

自然と人生のほとんどの時間を「週5日以上、長時間働く」以外の道はないかのように思いこまされ、人生の選択肢は狭められる。

それが合わない人は、その1つだけしかないと思い込まされている「社会」の中で苦しむだけだ。

多様で寛容な「社会」であるほうが、多くの人にとって生きやすいのは当然。

なのに、「勤勉であること」、「働き者であること」、「苦労してこそ人生」みたいな言葉を小さい頃から刷り込まれているおかげで、「社会」という言葉の持つ意味がすごく狭くなっている。

最近では、それがそういう状態がさらに進んだのか、大多数の側を占める「社会人」と言われる人たちからでさえ、「疲れた」という声はよく聞こえてくるようになった。

「疲れた人」が溢れる日本社会。仕事が辛いのに無理して働く理由は?
某ポータルサイトの話題のつぶやきをたまにチェックしている。 だいたいの場合、そのときやっているテレビ番組の話題がランキングに入ってくることが多い。 ネットが浸透したとはいえ、テレビというのはまだまだ相当な影響力があるのだ。 テレビをもたない

だったら、もうそんなにクソ真面目に「働く」だけの生活はやめて、自分に合う生き方を模索してみるのはどうだろう。

自分が生き証人となることで、日本でも「普通」でない人(働かない人も含めて)を見る機会が増えることにつながる。

それがどこかで結果的に「社会」が多様になることにつながるだろうし、そのことで多くの人の心も寛容になっていくかもしれない。

たとえば、ドイツには大きな都市の中にも、たくさんお金を稼いでそのお金を散在するみたいな以外の生き方をしている人を普通に見かけることができるし、福祉国家で有名なデンマークの首都のコペンハーゲンの中心部には「 Christiania(クリスティアニア)」というヒッピーのための自治区みたいな場所がある。

街角のクリエイティブ
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都市の人たちでも、「普通に働く」以外の生き方を間近に見ているから、ああいった国は様々な人に寛容になっているんじゃないかと思う。

日本ではそういう人を人口が集中している都市部のど真ん中で見ることはほとんどなく、よく見かけるのは会社で働くサラリーマンだ。

東京にはいろいろな人がいると日本ではいわれるけれど、海外から来た俺の友人は、スーツを着た人の多さに驚いていた。

一方で、日本でも地方の周辺部には少しずつ「エコヴィレッジ」みたいな自給自足生活や助け合いを基盤にした、消費主義とは一線を置いた人たちが集まる場所が作られつつある。

しかし、まだ大多数の人の意識に入るほどになってはいない。

こういう人が都市部にいないから、日本では働くという意味を付け加えられた狭い定義の「社会」に合わない人は排除されてしまいやすいのかもしれない。

だが、こういった狭い定義の「社会」に属さないような人たちのように、自分の生き方を考え抜いて生きていくことで、自然と多義的で寛容な「社会」をつくることに自然と貢献することになるのではないのだろうか。

いわゆる「普通」でない変わった人が増えることで、普通でない人が「普通」の人の目に触れる機会が増えて、ああこういうのもあってもいいなみたいになっていくんじゃないかと思う。

最初は大変だけれど。

phaさんとかその周りの人たちがテレビに出て叩かれているのを見るとそう思う。

価値観を拡げることをやっているんだから、ただ既存の価値観に従順に働いてたり、自分でも良いと思わないものを売ってお金を稼いでいる人たちより、すごいことをやっているとは個人的には思うけどね。

まあ、どっちにしても、別にお金のためだけにやりたくもない仕事をして我慢してストレスで自殺したり、ストレスが原因で病気になって死ぬくらいなら、自分が納得する生き方を模索するほうが全然いいと俺は思う。

だって、みんながある勤勉で働き者な模範的なイメージを基準にしていて、そうなるために「我慢すること」が当たり前の世の中で、ほとんどの人が本当は嫌なのにも関わらず我慢して生きてるんだから。

心の奥の本心とは違う生き方をしている人がほとんど。

そして、我慢して働けば働くほど、「働く=人生」みたいな価値観がいつのまにか強化されていって、結果的に自分の首をさらに絞めることになってしまう。

なので、そういう意味でも狭い意味での「社会」から外れた人たちが日本にはもっと多くなったらいいな~と思うんだけどね、俺は。

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