天気があまりよくない日が何日か続いた。
曇天が続いたり、雨がパラついたり。
外にいくのが億劫になるし、洗濯物は乾かないし、雨は嫌だなぁと天気予報を見ながら思っている自分がいる。
しかし雨がふらなければ、植物は成長しないし、動物だって飲み水を探すのに苦労するかもしれないし、水源が枯れてくれば俺たち人間も困ることになる。
一方で、雨は空気中の埃やゴミを落としてくれるので空気が綺麗になる。
雨が振れば、人間としては出かけたり移動するときに濡れるのは不快だし、傘を持ち歩くのも邪魔だから嫌なイメージがあるが視野を拡げると、人には直接に関係ないところで何か役割も果たしているわけだ。
一方で現在の日本では、「生産性がない人」や「役に立たない人は不要」みたいなことが、当たり前のように言われるようになっている。
今日は、ちょっとそういうことから考えたことを書いてみたい。
「使えない」「役に立たない」人の存在する意味
人間の中には、仕事がバリバリできて会社に役立つと思われている人、リーダー的な役割を果たし引っ張っていくなど、数字でわかりやすく成果を出せる人がいる。
かたや、仕事の要領を得るのに時間がかかる人や気が利かない性格だったり、コミュニケーションが下手で会社や学校では目立たない人たちもいる。
会社の中で、仕事の面だけで言ったら、そういう人は「使えない」「役立たず」というレッテルを張られ蔑まれているかもしれない。
そういわれた人は、自分には「存在意義がない」とか「生きている意味がない」と思ってしまうだろう。
だが、その人は会社で生きているだけではなく、家族や、友達や、地域の共同体や趣味仲間、今ではネットの世界など、多層的な社会に生きているのだから、その一面だけをとってその人を「使えない」「役立たず」と簡単には断定はできない。
そもそも、「仕事ができない人間」がいるから「仕事ができる人間」が、その成果の差によって際立つことになるのである。
全生物とか全生態系の面からみたら、さらに思わぬ役割を果たしているのかもしれない。
たとえ、朝目が覚めて食事をして散歩をしてネットを見てまた寝るみたいな生活にも、この世界のバランスを保つための意味があるのかもしれない。
アリの群れにも働かないアリがいるように何かわからないが、数字では割り切れない意味をもつ存在というのがなぜか存在するのがこの世のなのである。
本当の「存在意義」とか「生きている意味」というのは、世界の中でのほんの一点しかみることのできない生物にはわからないだろう。
「存在意義」や「生きている意味」というのは人間の頭を越えている
どこでどんな役立ち方をしているかは、どういう視点でみるかによって、全然変わってくる。
雨は人間には疎まがられるのにも関わらず、違う視点で見れば役割があるように、世間で価値のないとか言われたり、疎まがられるような人間にも、「存在意義」や「生きている意味」があるのかもしれない。
すべてのことに人間の頭の思考を超えた意味があったりするんじゃないか。
一般社会をドロップアウトしてしまうような金銭的に換算した生産性の面では圧倒的に低い俺のような人間にも……。
実際、こんな記事を書いて、なぜか読んでいる人がいて、この瞬間に何かが世界に起こっているし……
そんな俺のことは置いて置いてもいいから、よく考えてみよう。
そもそも生産性って言われていることは、人間だけに通用する定義で、他の生物や地球にとっては環境を壊される迷惑行為になっていることが多々ある。
本来必要のないものを欲しがらせて、資源の無駄遣いをしているだけという疑念は消えない。
そういう目線でみたら、「生産性の高い」と言われる人の存在意義も疑われてしまう。
なので、「生産性」や会社で使えるかどうかで自分を否定する必要はない。
とにかく世界は大きい。
その中のほんの小さな点くらいの存在である人間には本当のところは永遠にわからないのだろう。
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