高学歴なら、人生安泰。
いい大学に入って「高学歴という資格」を獲得し、有名企業に入って、お金をたくさんもらって、結婚できて、子供を産んで、マイホームをもって、老後はゆったりと暮らす、という人生を過ごす。
そんなふうに高学歴なら「レールに乗った人生」を歩める時代はほぼ終わっている。
高学歴になって、いい企業に就職して…という道筋を進む人間は現在でもいることはいる。
だけれども、今までの日本の大企業のやり方が通用しなくなっているし、終身雇用が崩壊してきて、リストラの可能性も大いにある。
また、有名企業だからと言って長時間残業や休日出勤、パワハラなどのブラックな労働環境で働かねばならないことになる可能性は十分あり、それがきっかけでうつ病などの精神病になって、会社を退社することにもなりかねない。
そんな状態になった人のことを世間では「人生詰んだ」とでもいうのだろうか。
今回は、高学歴と転落、ドロップアウトについて友人の人生に沿いながら書いてみる。
高学歴で有名広告代理店に入った女友人の転落
俺の知っている限りでも、高学歴なのに自分の意図とは関係なく、そんなふうに「人生詰んだ」状態になってしまった人がいる。
たとえば、大学の友人のCは、大学卒業後、大手広告代理店の制作部に入った。
彼女は大学生活を見ていた限りでは広告業界に関心がありそうな感じでもなかったのだが、就職活動をしているうちに興味がで始めたらしい。
インターンにも申し込んで、就活に精を出し、念願の入社を果たす。
誰もが知っている有名企業なので、周りの友人からも「すごいね~!」と称えられていた。
その後、誰もが知る有名芸能人と一緒に仕事をする機会も多いらしく、やはり華やかそうな広告業界の話も聞いた。
だが一方で、労働環境はやはり苛酷で、終電では帰れず毎日4時か5時にタクシーで帰り、短時間の睡眠の後、また会社に戻る日々が続いているという。
完全に長時間労働。
一部の体の強い人以外、耐えられる域を超えているだろう。
土日でさえ仕事が終わらず会社に通う日が多く、「今月はまだほとんど休んでないんだよね……」とちょっと元気なさそうだった。
新卒にしては良い給料をもらっていたのだが、時給換算したら、そこまで高くもなくなるみたいだ。
それから、さらに仕事が忙しくなって、大学時代から付き合っていた彼氏ともすれ違いが多くなり別れることに。
出なくてもいいような無駄な会議が深夜まで続くことも多く「あのクソ部長、死んでくれないかな……」などと頻繁に愚痴をこぼすようになっていたし、気分も沈んでいる様子に見えることも多かった。
忙しさで会う機会が減って行ったが、しばらくたったある日、再び連絡がきた。
結局、3年くらいで仕事を辞めて、都内の賃貸マンションを解約して実家に戻ったのだと言う。
それからは「次は定時に帰れる仕事がいい !」と言って、公務員試験を目指して勉強し始めたが、面接で落とされ続け、2~3年で区切りをつけた。
仕方ないので再び就職活動を始めたが、なかなか理想の条件の仕事が見つからず、派遣で働き始めて、職を転々としながら現在に至る。
「あぁ、私、人生詰んだかも……」
彼女の口からもとうとうこの言葉が出てきた。
彼女は世間的に言えば高学歴だし、有名企業にも入ったが、思っていた未来と現実が全然違った。
そのズレに耐え切れず、その後の「結婚して、子どもを生んで、マイホームをもって……」という彼女が想定していた未来を踏み外してしまった。
高学歴でもいつ人生詰んだり転落したりドロップアウトするかわからない
高学歴の資格を得たとしても、そのままいい企業で働き、高収入を得て、その後の人生も安泰、なんて道はいつ踏み外すかもわからない。
突如、悠々と歩いていた人生の道に横から暴走車が突っ込んできて事故ることも十分にありえるし、それがきっかけで、その思い描いていた人生の道から退場させられることもあるだろう。
俺の周りを見渡しただけでも、先の友人だけでなく、有名大企業に入ったがうつ病になって退職したあと引きこもってしまった人間や、結婚の失敗を起因として足を踏み外した人間など、高学歴でも、思い描いていたレールを外れてしまった人間は少なくない。
ところで「人生詰んだ」というのがどういうときに使われているのか思い浮かべてみると、「いい企業に就職して、結婚してマイホームを持って……」という一昔前の人生の模範イメージから外れてしまった状態を指して使われることが多いように思う。
実は、その道以外にも自分の足で歩いていける道がいくつも延びているにも関わらず、その道だけが駄目になったら「人生詰んだ」状態と考えてしまうのは、「いい企業で働き、高収入を得て……」というこの一昔前の典型的な人生のイメージに固執しているからではないだろうか。
こういう人生のイメージは、結局は自分で考えたものではなく、テレビやラジオなどで、たとえば雑誌の「企業の収入ランキング特集」や「ドラマの登場人物の1人」など、繰り返し使われる幸せのイメージとして、俺たちの目に映り、脳に刷り込まれている。
「個性化の時代」とか言われながらも、実は、ほとんど「一億総中流」なんて幻想を信じ込んでいた時代のイメージを刷り込まれ続けているのだ。
時代も状況も変わっているのだから、幸せのイメージを追い求めるのには無理があるのにも関わらず、そこに固執してそれしかないと思い込んでいれば、そのイメージどおりのものが手に入らないと思ったその時点で、「人生詰んだ・・・・・・」となってしまうのだろう。
いつ病気になるかもわからないし、事故にあうかもわからない。
思わぬ配置転換によって人間関係でストレスを抱えることになることもある。
それによって身体あるいは精神が病気になることもある。
突然、クビになることもあるし、会社だってつぶれることもある。
事件を巻き込まれたり、自分が起こす側になる可能性だって否定はできない。
大きな地震だってまた起こるかもしれない。
世界の流れは、昔から安定→変化→安定→変化……と繰り返すサイクルを続けているが、現在は「変化」の時期なのだろう。
新しい「幸せ」「幸福」のイメージが必要になる時代
そんな時代には、新たな人生の形のイメージ、幸せのイメージみたいなものが必要になってくる。
「どんな人間でありたいのか」、「どう生きたいのか」または「自分なりの幸せのイメージ」を個々人が考えていかなければならない。
そうでなければ、レールを外された瞬間に、ゲームオーバー感に苛まれることになる。
今の日本は、一度レールを踏み外すと簡単には戻れない仕組みになっているから。
なのでどこにもいけないような、どん底の気分に陥り、沼にはまって抜け出せなくなるかもしれない。
そりゃそうだ、自分に生きる軸がないのだから、お金とか社会的地位とか他人との比較がつきまとってグワングワンと振り回されてしまう。
だいたい、個人個人で生まれてくる家族も違うし、思うことも考えることも違うのに、同じストーリーが紡がれるわけがないのだ。
それを判を押したような物語の中に収めようとするから無理がでてしまうのだろう。
こういうことは、ユングのいうような個々人の「個性化」の一部なのだろうし、人生の「自己実現」の過程で重要になってくることだと思うのだが、学校では教えてくれないし、宗教にも頼らないのなら、それを自分で作り上げるしかない。
自分で人生のストーリーを作るということは、構想から何十年もかかるような超大作をつくるようなものなのだから、相当な熱量が必要になってくるし、とても難しいことではあるのだけれど。
そんな大仕事が人生に課せられているにも関わらず、普通に仕事をしていれば、長時間労働は当たり前だし、休みも満足にとれない。
困難な状況の中で、この課題に1人1人が向き合っていかなければならない大変な時代なのだ。
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