1週間くらい前の話だけれど、電通で働いていた女子社員が自殺した話がでてきて、ネットでも話題になっていた。
まだ1年目の新入社員だったみたいだ。
東大出身、容姿もいい、そして広告業界の最大手の電通で働いているという、日本社会に普通に生きていたら羨ましがられるような経歴の持ち主が、自ら命を絶ったというのだから話題になるのは当然だろう。
月の残業時間が100時間を超えていたらしく、そのことに対して、「100時間くらいで死ぬなんて情けない」なんていうことを言って、ネットで炎上騒ぎを起こしたどこかの教授もいた。
こういう人が評価されて大学で指導する立場にいるのだから、日本の多くの企業にも同じような人たちが相当な数いるのだろう。
自殺してしまった女子社員の上司も同じようなタイプの人だったのかもしれない。
この女子社員のツイッターアカウントが残っていたらしく、そちらに書いてあった内容が話題になっていた。
1日20時間会社にいて、なんのために生きているのかわからない、会社いきたくない、といった趣旨のものや、土日も出勤していることが推測されるもの、上司のパワハラのことをつぶやいているものもあって、まさにブラック企業だなと思ったが、これが日本の一流企業に分類されているのだから、すごい世の中だ。
何か気になったのか、俺の頭の中に自然とこの話題がずっと残っていて、考えたこといくつかある。
今日はそのことについて書こうと思う。
疲れの許容値っていうのは誰でも同じではない
「残業100時間で過労死するのが情けない」とか言った教授がいて、その言い分が原因になりネット上で炎上していた。
この人が前提としているのは、「誰もが同じものをもっている」ということなんじゃあないか。
同じ体力、同じ知力の基盤をもっていて、努力さえすれば誰でも同じことをこなせるという考え。
自分にできるんだから他の人にもできる、という考えにも基づいているんだろう。
俺にはまずこれが間違っているんじゃないかと思った。
人間は一人一人で、初期状態の身体能力も知能も違っているし、それが発達するスピードも各々違う。
様々に違う人が社会を構成している。
RPGゲームでたとえても、体力、知力、素早さとか初期値があって、キャラクターによってその伸びしろも違う。
ゲームをコントロールするプレイヤーはそれを活かして、1つのチームを組ませて課題をクリアしていく。
スポーツだって同じで、監督が個々の選手の状態をよく見て、それをもとに選手を適所に選抜してゲームを戦う。
こういうことを考えてみると、離脱者・脱落者が多いブラック企業を動かす人たちっていうのは、RPGゲームならキャラクターが死にまくるようなゲームの進め方をするプレイヤーだし、スポーツだったら、何日も連続で選手を出場させてヘトヘトになっているのに、気合でのりきれとか無理難題を言い、結果的に怪我人が続出して負けてしまうチームの監督なのかもしれない。
さらに言うと、人間が知覚を通して感じている感覚は、その本人にしかわからないからそもそも比較できない。
マラソンで10キロ走っても、倒れるくらい疲れる人と、走り終わっても疲れをみせずに振舞えるような人といるみたいに、残業100時間で過労死する人もいれば、しない人もいる。
疲労から回復するスピードも人によって違うと思う。
人の性格や思考の癖などの影響で、人と接する仕事を楽しみながらこなせる人もいるし、苦労する人もいる。
同じことの繰り返しが得意な人もいれば、毎回違うほうが楽しめるという人もいる。
こういった事と同じで長時間労働が向いている人もいれば、いない人もいるのではないか。
昔の「24時間戦えますか」というリゲインのCMコピーみたいな、体育会系なノリが合う人もいれば、合わない人もいるだろう。
何か1つのことが人に与える影響は、一様に同じではなく、各個人の身体・精神の状態、性格などによって違う。
前提条件を同じと考えて、誰でも努力で同じ基準に達することができるというのは、人間というのは個々人で違うということを無視した、非人間的な見方なんじゃあないかと思った。
でもこの非人間的な、「誰でも同じで平等なんだ」という考えが日本では広く共有されているというのも一つの事実だろう。
こういう考えは国や管理者にだけは都合がいいが、そうではない人にはあまりいいことがない。
物質的な満足が足りない発展途上の国にとっては、こういう方法が効率的かもしれないが、すでにそういう時期を終えた日本にとっては人々の幸福感を下げることにつながることも多いだろうと俺は思う。
労働時間が長いほど会社が世界のすべてになる
長時間労働がキツいのはわかるが、なにも自殺しなくてもって言う人がいる。
一方、俺が思ったのはちょっと違う。
この女子社員みたいに睡眠時間が2時間になるくらいの長時間労働で、1日のほとんどすべての時間を仕事につかっていたから、仕事がその人の世界のすべてになるんじゃないかってことだ。
20時間も会社にいるとかいうツイートもあったが、1日のうち20/24すなわち5/6の時間が会社での時間になっていて、この人の目や耳から知覚するほとんどのことは会社の情報になる。
そうなれば、会社=世界のすべてになっていて、視野が外に向かわなくなるのも無理はない。
上司に言われたことも真にうけて、自分が悪いから、こういう状況になっている、残業するのも仕方ない、みんなやっているし、辛くてもやるしかないというようになってもおかしくない。
これは、軽い洗脳みたいな状態だと思うのだけれど、洗脳を解くには外からの力が必要だ。
だけれど、自分の世界のほとんどが仕事のことになってしまったら、外からの力は働きにくい。
最初の頃は、自分の感覚としても、疲れたとか辛いとか感じやすいのだが、こういうブラック企業がつくる環境に長時間さらされていれば感覚も麻痺してくる。
麻痺していようと、休まなければ疲れはとれることはないのだから、自分が疲れを感じているのなら、そちらを信じて行動したほうが精神と身体を壊すことを未然に防ぐことにつながる。
自分の感覚は、他の人にはわかりづらいが、身体からの直のメッセージだ。
それを無視し続ければ、身体は壊れてしまう。
一度、精神や身体を壊してしまえば、治療するのに、本来必要だった休みの日数よりずっと長い期間の休養が必要になるし、今回のようにその病が原因で死につながってしまうこともある。
効率を重視して会社の利益を上げるのが目標なら、疲労を回復するための十分な休みをとりいれるのが結果的に効率的で会社の利益にもつながるんじゃあないのか。
それが通らない雰囲気が日本の企業にはあるのだろう。
定時に帰れないで残業するのが当たり前、有給休暇は消化できない。
もともと1人では抱えきれない仕事量を抱えこまされて、終わらなければ残業して、それでも終わらなければ家にも持ち帰ってなにがなんでも期日までに終わらせる。
そういった空気が会社に充満していて、そこで毎日のほぼすべての時間を過ごしていたら、その世界がその人のすべてになり、当たり前のことになる。
俺が海外で会った人たちには、日本人はワーカホリックで自分だったら絶対にそんなに働けないという人が多かったが、働きまくるのが当たり前の世界にずっといれば、それが普通になってしまうのである。
それでも身体は素直だから、精神論でいくらどうこう言おうとも、「もう無理です」と悲鳴をあげて壊れるのだろうけれど。
偏差値が高い大学出身だからといって、どんな仕事にも適応できるわけではない
偏差値が高い大学出身だからといって、どんな仕事にも適応できるわけではないし、何でも耐えられるわけではない。
偏差値の高い大学を卒業したことは、受験勉強によって測られる範囲での暗記能力と、文字情報の処理能力が高いこと、それに人生の時間をいかに我慢して受験のための勉強に費やしてきたことを証明するもので、すべての仕事がそれによって対応できるわけではない。
今回の件でいえば、短時間睡眠を強いられる環境でそれに耐えられなかったのもあるのかもしれない。
睡眠時間が足りなければ、身体も精神も回復しない。
必要な睡眠時間も人によって違って、7~8時間寝ないと疲れが取れない人もいれば、2~3時間でも大丈夫だという人も少なからずいる。
(俺の知っている人で精神的な病に罹った人のほとんどは、睡眠時間がかなり短くなっていたのだが)
以前に書いた記事の中で下園壮太さんが書いた『心の疲れをとる技術』という本の内容を紹介した。
今回の過労死してしまった女子社員の方は、睡眠時間が足りなかったことで疲労が蓄積して、この本で言う「疲れの第3段階」である「別人化」に入っていたのだろう。
この「別人化」の段階になると次のような状態になる
・やたら不安になる
・自分を責める
・自信をなくす
・アルコールやギャンブルにのめり込む
・この状態の典型は「死にたくなる気持ち」がでてくること
・苦しみや、異常さには気づくが、それがムリのせいだとは思わず、単に自分の能力や努力が足りないせいだと思い込み、さらにムリをする
この段階に入ると、回復するのには長期の休養が必要になる。
自分だけでは対処できない状況に入っているので医療などの第三者の介入が必要な状態になっている。
短時間睡眠でも耐えられるという人もいて、そういう人が多忙な業界で残っていくのかもしれないが、それは学歴とは必ずしも関係ないことだ。
今までの人生で、この女子社員は真面目に努力してその分の結果に恵まれてきたのかもしれない。
懸命に勉強して日本の最高学府といわれる東大に入り、就活にも力を入れて有名企業にも入社することができた。
努力をすれば結果が出たから、それが成功体験となり、成功するには我慢して努力し続ければいいというのが無意識的にもあったのかもしれない。
だが、その真面目さに基づいて睡眠時間を削って仕事をした結果、疲労が蓄積し精神的にも疲れ果て、死につながってしまった。
偏差値の高い大学を出た人は、周りにもそういう高学歴の人が多くなって、エリート的な道を目指すことが人生の共通目標になり、そのためには過酷な労働でも我慢して耐えるのは当然のことという前提ができあがるのかもしれないが。
一方で、『ニートの歩き方』を書いたphaさんのように、京大出身という高学歴にも関わらず、好きなだけ寝て起きたい時間に起きる自由を得るために会社を辞めて、できるだけ嫌な仕事をしない道を選んだという人もいる。
今まで属してきた高学歴社会の価値観と自分が合わないことに気づいた場合も、phaさんのように自分の感覚を信じて自分なりの幸福観を築ければいいのだが、彼が注目を浴びるのは滅多にいない存在だからだ。
今まで苦労して築いてきたものを捨てるのは、並大抵の覚悟ではできることではないし、同じようにできる人は少ないのだろう。
電通女子社員は競争社会の比較によって人生が縛られていたのかも
俺は、死ぬのは何が何でも悪いとは思っていないし、自分で考えぬいてそれを選ぶのに対しては、それも1つの人生のあり方だと思っている。
(今回の電通女子社員の場合は、過労の末に欝になっていたらしいので、完全に自分で選んだとは言えないと思うが)
人が自ら死を選ぶときというのは、未来において少しはよくなるんじゃないかっていう希望が完全になくなったときじゃあないだろうか。
そういう意味では、会社が世界のすべてになってしまっていれば、会社でうまくいかなくなった途端に未来に希望が無くなってしまうのかもしれない。
会社で過ごす時間が自分の時間のほとんどすべてを占めているのなら、仕事がなくなったら人生のすべてが終わると思ってしまうのも不思議ではない。
しかも高学歴だったら、そのプライドもあるだろうし、無職になったりキャリアに傷がつくことには人一倍気を使うだろう。
高学歴で、有名企業で働いていたら、周りにもそういう人たちが集まるだろうし、今までずっと競争をさせられてきたゆえに、自分を常にその人たちと比較しているのではないだろうか。
自己イメージ、セルフイメージといわれるような自分自信による自分の認識にも、この比較が常に働く。
競争社会の中で自分を保つためには、いろいろなことに縛られるものだ。
日本の「普通」をドロップアウトした男の推測でしかないが、こういうことがあいまって、電通の女子社員だった方は身動きが取れなくなってしまっていたのかもしれない。
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