競争社会っていうのは、勝ちと負けがあることを前提としている。
だから当然、競争に負けて競争社会を脱落する人たちも出てくる。
競争が延々と道の先まで続くので、疲れて嫌になってくる人もいる。
次の職も決まっていないのに、様々な要因が重なり突然会社を辞めることになり困惑している人。
ブラック企業にハマり、長時間労働を強いられた結果、うつ病にかかって、仕事を辞めざるを得なくなった人。
人間関係がうまくいかなくて、職場に行きたくなくなってしまった人。
新卒で入った会社があわなすぎて辞めてしまい、無職を続けている人。
学校を辞めてから何もする気がおきない人。
いろいろなパターンがあるだろう。
こういう人たちは、本当に脱落者なのだろうか。
「競争社会に疲れた」「生きづらい世の中だ」と感じる人の生きる道は…
これらの人は人間的にダメだったのではなく、もともと行く道を間違っていただけなのかもしれない。
今までずっと「生きづらい世の中」だと感じてきた人たちは、自分の得意でない分野の競争をし続けてきたのかもしれない。
行く道を間違っていれば、自分には合わない仕事や人間関係がどんどん降りかかってきて、ストレスは溜まるし、うまくいかないことのほうが多くなる。
そもそも、行く方向が間違っていたら、いくらその先に頑張って進んでも、本当に見つけたかったものは見えてこない。
今までやってきたその競争によって、何を得ようとしていたのか。
高学歴のステイタスか。
高収入になりたかったのか。
マイホームが欲しかったのか。
容姿のいい異性のパートナーが欲しかったのか。
これらは本当に自分が心の底から欲しいと思ったものなのだろうか。
実は、人と比べたり、他の誰かからの影響を受けて、いつの間にか欲しがらされているものではないだろうか。
当たり前の価値観と思っているものは実は作られたものかもしれない
「一般的な考え」といわれるものは、社会にすでにある価値観を元にしていて、その中で競争しているだけのことだ。
「働かなければいけない」、「我慢するのが当たり前」、「苦労してこそ成長がある」などなど。
でも、そういう価値観ていうのは自分の人生を生きる上では絶対とは限らない。
現在流布している多くの価値観というのは教育やマス・メディアによって多くの人が共有しているだけのものである。
「カッコイイ」「カワイイ」のイメージのほとんどもそうだ。
「まともな大人」「立派な人生」「成功」などのイメージもそう。
多くの人がある情報を共有することで「真実」ができあがるように、価値観もその「信憑性」を増す。
たとえば、ドラマやドキュメンタリーの主人公が、「大変な仕事を我慢・苦労をしてやり遂げ、最後には成功をする」みたいな話を毎日のようにみることで、それが「成功」のイメージを作っている。
それを目指すのはいいが、そんなドラマチックに事が進むことはほとんどない。
だいたい、ドラマはもちろんドキュメンタリーでさえ、本来淡々と続く日常を撮っているのにも関わらず、展開として30分から1時間みて面白いと思わせるために編集が加えられていて、その編集作業が入っている時点で「虚構」でしかない。
まあこれは、作り手と観る側の暗黙の合意がなされているのだろうからいいとしよう。
しかし、こういうふうにできあがった価値観によって、多くの人が生きやすくなるならいいが、そうでないこともある。
先ほど上げた「働かなければいけない」とか「我慢するのが当たり前」なんていう自己犠牲的な価値観は、人を限界まで追い詰めることもある。
虚構によって自分が苦しくなるなんてばかばかしいことだ。
多くの人が信じているからといって、その価値観に自分の人生を沿わせる必要はないのである。
幸せになりたいのなら主観を大事にすることも必要
旅をしていて思ったことがある。
「世界遺産」に登録されている場所には数多くの人が集まる。
「世界遺産」に登録されれば、メディアも一斉にとりあげて、多くの人がその情報を共有し、その場所には価値があると皆が一斉に思い込むのだろう。
一方で、そういう「お墨付き」をもらっていない場所には、そんなに人は多くこない。
たまたま通りがかった綺麗な海が見える小さな漁村の風景に心を打たれたことがあるが、そこにはほとんど観光客はいなかった。
俺にとってこの場所は、その場所の空気感や、生きている人々の息遣いや、そこに流れる時間を目いっぱいに感じられた気がして、近く観光客でいっぱいの世界遺産よりも満足度は高かった。
なんのお墨付きもない小さな街の風景は、俺にとっては世界遺産以上の価値があったわけだ。
世間で共有されている情報、それによって出来上がった価値観が、常に自分にとって正しいとは限らないのである。
誰かが何かと言ったことに、専門家や大きな機関のお墨つきを与えられて、思い込まされているだけのことの方がこの世には多いのかもしれない。
自分の人生における価値観を考える上でも同じで、どういう人生を歩むのかは、別に世間で言われるような「成功」や「立派な人生」でなくてもいいのではないだろうか。
現在の世の中は、やたらに客観が重んじられて、主観はどうでもいいみたいになっているんだけれど、「幸せ」っていうのは主観と結びつくものなのだから、人生を考える上でも自分の主観は大事にしたほうがいいと思う。
「一般的」、「大多数」、「普通」の外にも道は延びている
ある情報が積み重なってできた「一般的考え」というのは、その時代の一部の人が共有しているだけで、それが絶対なわけではない。
その当たり前と思っている思い込みを外すことで、気分的に自由になれるかもしれない。
多くの人が歩いている目抜き通りのような道以外にも、たくさんの小路や、道にもなっていないがなぜか興味がそそられる方面があることに気づくことがないだろうか。
だけれど、その方向には人がいないので、踏み出すには少し勇気がいる。
先例がないことをするのは、誰もが恐れる。
マニュアルやテンプレートが少ない仕事をするのが難しいのと同じだ。
答えがないから、自分で見つけ出さなければいけない。
なので手間はかかるが、その分、自分のためにやっていることなのでやりがいを感じるだろう。
人生もそうなのかもしれない。
「大企業に入って、結婚して、マイホームを持って……」という大多数の人が通るような道を行くようにどこからかプレッシャーがかかる。
そういう生き方が、自分に真に合っていると思えるならその生き方のほうが幸せなんだから、その道をいったほうがいい。
こういう人はラッキーだ。
自分で手をかけて探す必要がないんだから。
だが、その道が心地よくない人やその行き着く先に目的のものがないと感じる人もいる。
そんな人たちは、よく考えてみれば、一般的な価値観の外を模索する資格を与えられたのかもしれない。
(下の記事は少し変わった友人がお店を開いた話)
競争社会に疲れた人、生きづらい人がもつ才能
これは俺の今まで会った人から感じたことだが、ほとんどの人は「仕事がつまらない」と思いながら働いていると思う。
つまらないことに1日の大半を費やすのは不幸とも考えることができるが、それを我慢することができる人もいる。
日本の義務教育で教え込まれる、というかインストールされる1つ重要なプログラムというのは、「競争社会で企業の歯車になれるよう辛くても我慢すること」ではないかと俺は勘ぐっている。
だから、うまく教育された人たちというのはそれだけ我慢強い。
つまらないことでも暗記できるし、それを続けることができる。
競争社会に疲れて脱落してしまう人は、この我慢ができない人だ。
これは、1日の大半を「つまらない仕事」に費やせる人からみれば、「我慢が足りない」ということになるのかもしれない。
だけれど、こういうことを言う人たちは、そもそもつまらないことをやらないで生きていく道を探したことがない人たちのことが多い。
なぜなら、小さい頃から競争社会を生きていれば、受験勉強とか出世競争で自分の人生を真剣に考える暇なんてないから。
競争社会をドロップアウトした人は、そういう人にはできない道を歩むチャンスを与えられたのだとも考えることができる。
他の人が見向きもしない道を自ら歩めば、競争する人もいないので焦る必要もない。
大変なことももちろんあるだろうが、唯一無二の貴重な経験となるだろう。
この世を生きる方法は、パック旅行でいくツアー的な方法だけではない。
ツアーで見れるところ以外にも、自分を満足させてくれる場所はこの世界にはあるし、そういう場所へ自分の行き先を決めることもできるはずだ。
少数側の人にしかできないこともある。
そういう道を探すのも1つの人生の歩み方なのではないだろうか。
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