ドロップアウトする人たちは、「普通」を自ら外れたとか、あるいは踏み外さずにはいられなかった、何か常軌を逸したところを持つ人たちだと俺は思っている。
「普通」の道というのは大多数の人間が歩く道で、今までに踏み固められていて、人生の先方を広く見通すことができるという意味で安心感がある。
しかも、一緒にその道を歩ける人たちも多いから、仲間も見つけやすいし、相談もしやすい。
孤独で不安になることも少ないだろう。
一方、何かが原因で挫折したり、何かに違和感を感じて、「普通」をドロップアウトした人たちは、人一倍、孤独感を感じることになるかもしれない。
同じ道を誰も歩いていないことだってありえるからだ。
「世間体」に従った価値観が作る「平均年収○○万」、「結婚できるか」などのプレッシャー
「普通」という言葉はそれを外れた人たちには疎外感を与えるようになる。
「普通、○○歳までには年収~万円はほしいよねぇ~」
「次も探さないで会社辞めるのなんて普通じゃないよねぇ~」
「普通、○○歳だったら結婚してるよねぇ~」
「普通、あの歳でフラフラしてないよねぇ~」
「普通、~」という言葉は、そうでない場合は「異常」と言うニュアンスを含んでいる。
多数の人が共有している以外の方法は「普通」から外れ非常識なので認めません。
「世間」という言葉で暗示するのもそういうことだ。
大多数の人がそうするから、同じことをするというのは、その場にいれば一見正しいことにみえそうだが、自分で全く判断していないという意味では、思考が停止しているともいえなくない。
人生の選択をするときに大事なのは、周りがどうするかよりも、自分にあっているかどうかだ。
なぜなら、幸せというものは、とても主観的なものであり、何を幸せだと思うかは、個々人によってまったく違うと俺は思うからだ。
世間体を気にしていると自分の幸せから遠のいてしまう人もいるのである。
「普通は、~」と言う人たちは、みんなが同じ価値観を持っていると考える人たちなわけで、自分がその「普通」の価値観の中で優位にいるんだと、暗にほのめかすことで安心したいのかもしれない。
まあ、そういうことを「普通」じゃない人たちに言って、自分の中の何かの不安を解消しているのなら、ドロップアウトを含めた「普通」じゃない人たちは、その存在だけで社会の役にたっているともいえるかもしれないが。
何にしても、「普通」じゃない道を行くのなら、こういう噂話を流せるくらいでないと、精神が疲弊してしまう。
特に、ドロップアウトして最初の頃は、こういう「普通~だよね」的な話に気をとられやすい。
だけれど、ドロップアウトしてから年月を経ると、自分の周りにそういう人が自然と減ってくるのもあるかもしれないが、特に気にもならなくなる。
様々な経験をして、「普通」じゃなくても生きていける自信がついてくれば、そういう話には、もう耳を向けなくなるだろう。
非常識でもドロップアウトしたところに自分らしく生きる道がある人もいる
ドロップアウトする人たち、またはドロップアウトせざるを得なかった人たちは、自分で人生の道を開拓していかなくてはいけない。
自分に合った道で先人がいれば、人生の実例として参考になるし、少しは安心は得れるかもしれないが、ドロップアウトすれば圧倒的少数派になるし、基本的には実例も少なく、先の未来が想像しにくい場合も少ないないだろう。
だが、世の中でその道を歩もうとする人が圧倒的に少なく、どこに延びているのか見当もつかないような道を行く人生は、今までになかった新しい価値や意味を見出すことにつながるものかもしれない。
そういう道を行くほうが幸せだと感じる人もいるだろう。
何かモノを作るときのことを考えてみよう。
類似品、つまりコピーを作り続けるほうが楽ではあるが、ありきたりなものは誰でも作れるため、すぐに飽きられてしまう。
この世界には、こういうコピー品が圧倒的に多いのが現実だ。
新しいものを作るはものすごく難しいことであるが、もしオリジナリティのあるものを作ることができたら、その喜びは計り知れないものになるはずだ。
こういうものは、実は多くの人に待望されているものである。
そういったものは、「世間」や「大多数」の価値観だけを共有している人たちには生み出すことができない。
「普通」を何かしらの意味で外れた人にしかつくれないもの、歩けない道もあるのだ。
ドロップアウトした人間には、そういう「普通」を逸した道の先にこそ恰好のフィールドがあるのかもしれない。
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