正月は実家に帰っていた。
テレビを10年以上前に捨ててしまったから俺は普段はテレビを見ない。
だけど実家に帰った時には居間でちょっと見たりする。
今回はたまたま「林先生が驚く初耳学」なる番組やっていた。
その番組の一つの企画で、番組の司会である林修という有名予備校講師が高学歴ニートと討論するのがあった。
大きな話の流れとしてはニートは働いてないから、「社会の構成員としては役割を満たしてないから働きましょう」っていう最初から結論あったんじゃないかって感じで終わった。
林修さんという人が余りに台本通りというか、前もって考えてきたことを喋った感じに見えた。
まあ、こういう方針で喋ってくださいって言われているんだろうけどさ。
あの林修さんという人は、バブル期あたりに銀行やめて事業をやって失敗したとかいってたけど、そういう生き方の方自体、お金を稼いでそれを増幅させて、より多く消費するのが幸せと考える消費資本主義を突っ走ってきてるわけだから、今の時代の雇用環境と若者が感じてる日本の閉塞感をあまり理解できないのかもしれない。
だからなのか、力でふさぎ込めた感のある番組進行に俺には見えた。
だいたい先生が教壇の上に立ってて、高学歴ニートの生徒を諭すっていう舞台演出の構図があると、林先生という人の意見が間違いないっていうふうに見えやすいんだよね。
みんなそういう風に教育受けてきてるし。
あれやるならもう1人くらい違う立場の人を教壇に立たせたほうが、議論が盛り上がったろうし、予期せぬ意見も出ただろう。
たとえば坂口恭平さんとか。
まあ実際はそういうこともないので、結局ありきたりの「働いてない人は少しでもこの社会を回すための燃料になるために働きなさい」っていうお説教じみた話で予定調和的な終わり。
そんなの番組に出ていた高学歴ニートたちは毎日のようにメディアからも親からも暗に聞かされているだろう。
それでも働かない道を歩んでいるわけなんだから(あるいは歩まざるを得ないわけなんだから)、もう少し話の方向が変わっても良かったんじゃなかったか。
というか、アリでも約2割は働かないっていう話もあるんだし、人間も動物なんだからそういうものだと思って、寛容に受け止めていった方が平和でいい社会になるのに。
そういうことが、みんな忙しくて余裕のない社会には無理なのだろうか。
そう考えると忙しいというにはやはり豊かではない証拠だな。
林修の初耳学での高学歴ニートはそこまで否定されるべき存在なのか
この企画の最初のほうで、林修さんは高学歴ニートたちに、「ニートのあり方は否定はしません」みたいなことを言っていたが、結局いろんな理屈をつけて否定が繰り返された。
「年収890万なかったら社会のお荷物」という話とか。
この話、ものすごく正論に聞こえるし、無職やニートの人、さらには890万以下の年収の人にまで、「生きててすいません」っていう思いを抱かせる話だが、そんなことは思わなくていいと俺は思う。
この「年収890万なかったら社会のお荷物」という話は、今の日本の平均収入が400万くらいだとすると、この社会システムがすでに失敗していると言っているに過ぎない。
設計として失敗してたんだから、それは890万以下の人たちに責任あるわけじゃない。
それをまるで責任があるかのように思わせて、稼がなきゃみたいに焦燥感を煽るのはどうかと思う。
(俺は、あの890万円ていう基準には、もともと怪しい日本の予算からの算出なので懐疑的だけど、その話はまた違う時に)
ああやって年収が低い人をダメ扱いして、もっと頑張らなきゃって焦らせて、日本で働いてる人をさらに疲弊させたいのかな。
ただでさえ疲れてるのに…
あの高学歴ニートたちは、今の日本では、普通に会社入って会社のために自分をほぼ犠牲にして頑張っても大して幸せになれないって思ってたわけで、それ自体はそんなに否定される内容ではないのでは?
「給料低すぎてやる気でない」とか、「飲み会とか行きたくない」とか、「会社行きたくね~」とかみんな思ってるわけだし。
ニートや無職が今の日本社会で働かない選択をする意味とは?
この間、この世界のお金は1%の人たちが80%以上を占めてしまっているという記事を前に見た。
(この1%というのは、俺らの身の周りにいるちょっとした金持ちレベルではなく、半端ない金持ち達のこと)
1%の人に80%以上の富が集まってしまうのは、さすがにそのシステムの設定がおかしいよね。
機会(チャンス)が平等でない証拠。
もう個人の努力の問題ではないだろう。
基本的にお金が最初からあるほうが、何か事業をやるには圧倒的有利。
学校行くのもお金がないといけない、生活するのも手一杯の人がいる一方で、相続によって格差がずっと続くシステムが維持されている。
これをそのまま何の否定もなく続けるのはおかしい。
資本主義の中で競争するのは、最初から金持ってる人が圧倒的有利な条件にあるわけじゃん。
すでに1%の人がほとんどのお金を占めちゃってるし。この人たちがいくらでも投資なんかで持ってるお金回してそれを維持できるんだよね。
少なくともこれ以上同じ道を一緒にぞろぞろ歩いても仕方ない。
20%未満のお金を99%の人たちで必死に奪い合っている。
みんなで分ければ、多くの人が幸せになれるのに
こんな資本主義のシステムを目の当たりにしてみても、本当にニートや無職が働かない選択をしていることに意味がないと言えるのか。
だいたい99%の人がいなければ、このシステムは回らないのだ。
働かない選択をして生産しなければ、1%の人たちにも搾取されないし、その人たちの助けにもならない。
あり得ないと思うかもしれないが、多くの人が「もうやめた」となれば、終わってしまうシステムだ。
ニートの存在というのはそれだけで、ある意味静かな抵抗だよね。
意識していようといまいとも。
働かない人が増えるのはこのシステムへの自然の摂理だったりして。
初耳学にでていた高学歴ニートに批判……そんなに変な人たちではないのでは?
初耳学にでていた高学歴ニートたちは、番組の後もネットで叩かれまくったようだ。
「年間休日180日」で「年収3000万」とか発言に極端なものがあってそれにフォーカスを当ててたから、「ロクでもない人間」というふうにみえたんだろうと俺は思っている。
あれはおそらく主張した人の最も尖った表現で、あの人たちはテレビの編集を経ていなかったら、そんなに極端な意見ばかりの人たちではないはずだ。
テレビ番組を賛成と反対の二項対立にしてわかりやすくするために、単純化するのはいつもやってることだから。
批判してた人たちは、実際に知り合いとして高学歴ニートと話してみたら意外と理解できる部分もあると思うんだよね。
あそこに出てた高学歴ニートの人たち、ゲームとか服やブログ作ってたりして、面白そうな人たちだったし。
ニートや無職が増えたら日本社会への問題提起になるかも
俺が思ったのは、ニートとか無職の人たちが集まって村みたいなのができて楽しそうに暮らしてたら今の日本社会には相当なインパクトあると思うんだよ。
和歌山の山奥ニートの村みたいに。
楽しそうなニートとか無職とか、その他あんまり働かない人が増えて、ある程度のまとまりを作ったら今の日本の生きづらい感じを打破することに繋がると思うんだけどな。
多数になびく人が多いんだから、そういう無職とかニートコミュニティが大きくなって身近になって、しかもお洒落で楽しそうだったら、アリかもってなるでしょう。
オタクが比較的一般化したみたいな感じで。
やっぱ日本て金が全てっていう考えと会社で働くのが人生みたいな固定概念に穴を開けるような体験をする機会がないんだと思う。
デンマークの首都コペンハーゲンにChristiania(クリスチャニア)というヒッピーコミュニティがある。
他の場所とは違い、実質的には限定的な自治が認められていて、他の場所では違法なことも黙認されているようだ。
俺が10年以上前に行った時には、昼間からレゲエミュージックが結構大きな音でかかっていて、ドレッドヘアにカラフルな服を着ている人が行き交っていた。
こういう違う考えの人が集まるコミュニティが都会のど真ん中にあったら、人の意識もだいぶ変わると思うんだけど。
Christiania(クリスチャニア)は下の記事を見れば写真もあるので雰囲気わかると思います。
ああいう少数派の考え方の人たちにも居場所を作れるのが本当の先進国だと思った。
日本もそういう余裕ができたらいいんだけどね。
東京だったら高円寺あたりならChristianiaみたいな雰囲気合うと思うし、インパクトがデカいんだけどな~。
音楽家とか芸術家はたくさんいて、すでにそういうコミュニティの雰囲気がちょっとあるし。
「素人の乱」というリサイクルショップを中心にずっと前からコミュニティも形成されてるし。
前にも書いたけど、俺は日本社会の元凶は「働き過ぎ」にあると思っている。
今後、いろんなところにニートや無職、その他働くということにそこまでの絶対的な価値を置かない人が集まるところが自然とできていったら、今の日本社会の閉塞感が、そういう経済的には価値がないと見られていた人たちによって打破されるかもしれないし、すごく面白い展開になるよな、なんて勝手に想像している。
働かない選択をしたニートは社会にとって本当に意味がないのか
俺はニートや無職期間というのは今の日本には意外と大事な期間だと思っている。
(病気やケガなどで、働きたいと思っているのに働けない状態はこの場合は除く)
宮沢賢治だってニートだった頃があったみたいだし、南方熊楠もけっこうなニートっぷりだったという話を聞いたことがある。
彼らがいくらの経済的価値を残したかは知らないけど、お金に換算できない生き方や人生の考え方を彼らは残したのは間違いない。
なんでもお金だけで判断する資本主義社会の中では、そういうことは無価値になってしまうが、実際の人間が生きている世界はそういう考え方以外のものでも成り立っているのが現実だ。
金稼いでなかったら生きる価値ないとか、そういう考えが支配的な社会では、経済的に計ることのできない才能あっても花開く可能性が減ってしまうだろう。
資本主義それ自体に役立つものだけ発展させていっても、資本主義の燃料がさらに投下されて、そのスピードを早めるだけだ。
(つまりは資本を持っている1%の人にお金の80%以上が集まってしまうという事態をさらに悪化させる)
そんなことをしても、現在採用されている資本主義以外の可能性が発展する芽を摘むし、多くの人は生きにくくなるだけだ。
上記の人たちのように、たとえそんなに誰かの役に立つとか大そうな結果がなかったとしても、それはそれで「何も生産しないこと」を受けとめられる社会の寛容さを育てることに、暗にだけれど自然と一役かっているんじゃないかと俺は思っている。
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