会社行きたくない。
働きたくない。
人生に疲れた。
ブログやtwitterなどの本音をいうためのネットメディアにはこういう言葉があふれている。
こういう言葉は、実際に誰かに向かって口にすることはそれほど多くないが、相当な数の人の頭の中で何度もこだましている独り言だ。
満員電車で通勤して長時間仕事をこなして帰ってきて寝るだけ。
自分の好きなことをやる時間も、ぼーっとする時間もない。
そんな毎日がずっと続くのが当たり前になるが、それは本当に自分の人生のためなのだろうか。
なぜ日本人はこんなにも疲れるのか
働きたくないのは、会社が自分にあっていないか、または職種が自分にマッチしていないか、または働く日数が自分に合っていないのだろう。
人生に疲れてしまったのは、そうやって今まで無理して自分に負荷をかけて走り続けて、頭が疲れきってしまったからかもしれない。
こういう悩みを解決するにも、自分のための時間が必要になってくる。
自分にあってる仕事、本当にしたい勉強、どうやって生きていきたいのか。
こういうことは自分自身のことを知らないとわからない。
そのためにも、けっこうな時間が必要なはずなのだが、日本で「普通」に暮らしていると、この時間をもつことがなかなか難しいのだ。
週5日、正社員で働いているだけでも、週のうち2日の休みしかない。
少しゆっくり寝て起きて、掃除や洗濯、料理などの家事を終わらせたら、休日のうちの1日は夕方か夜になっていることもある。
残った1日で、出かけたり友達と遊んだりしたら、あっという間に1日が過ぎしまう。
下の記事にも書いたように、休んだ気にもならないので「明日仕事行きたくない……」と日曜日の憂鬱に陥る。
また残業が多かったり、有休も消化できない人たちも多い。
残業代の出ないサービス残業を強いられている人も少なくないし、土日まで働かせられる人もいる。
週休2日なんてマシなほうだよ、なんて声も聞こえてくるのが実情だ。
学校を卒業してから、こんな生活がずっと続くのだ。
「何のために生きてるんだろう」という疑問がわいてくるのも当然のことである。
日本人は働きすぎ? 海外で出会った旅人には無職やニートも珍しくなかった
欧州では30歳くらいまで学生したり、いろんな本を読んだり自分のやりたいことを探したり外国で暮らしてみたりする人も少なくない。
実際、俺が海外に住んでみたときには、いろいろな人に会った。
下の記事ではそのことについて書いている。
今までは会社で働いてたけど、ちょっといろいろ自分の人生について考えたくなったので、国の外にでて、語学を学びながら、様々な分野の本を読み、これからの人生を考えていた30歳くらいのイタリア人の男。
学校を辞めたり休学したりして、29歳でもまだ学生をやりながら、様々な国を転々とし生き方を模索するドイツ人。
イギリス出身で、けっこういい大学をでたけど、仕事でうまくいかなくなり精神的に病んでしまったので仕事をやめ、長期の休養期間をとることにして海外をふらふらしてる30代の女の人。
40歳を越えたアメリカ人で、離婚して車一つに荷物を詰め込んで、アメリカの東海岸から西海岸まで車を走らせてそのまま車を売り払い、必要なものだけまとめ飛行機で西海岸から飛び立って、世界を放浪してる男とか。
スペインから語学を学びに来てる20代~30代の人たちなんて、ほぼ無職だった。
不況下というのもあるだろうけど、仕事がなくて、親にお金を出してもらい語学を学んでいる人がかなりいた。
これが日本だったら「甘えんな」とか言われるんだろうか。
一人旅でインドに行ったときは、ガンジス川のほとりで瞑想や祈りを一日中やっている僧もいたし、一日中釣りをして俺に金がないからくれと言ってくるおっさんもいた。
東南アジアでは、仕事は適当にやってあとはフラフラしていたり自分の好きなことをやっている人なんてたくさんいた。
日本ではどうだろうか。
学生のように比較的時間をもつ猶予のある期間というのは20代前半までとされ、そのあとは仕事にあけくれる日々がまっている。
「普通」に生きていては、好きなことをしたり、ゆっくり自分の人生を考える時間を確保するのが難しい。
ましてや1か月も旅に出るなんて不可能だろう。
やりたいことが何もないと言う声はよく聞くし、自分とやっている仕事との相性が悪く、そのミスマッチがずっと続いてしまうのも、20歳を過ぎたら自己責任とか、考える余白をあたえない「厳しい空気」があるからだろう。
実際、履歴書に仕事歴のない期間があれば、次の仕事を探すときにマイナスになってしまうというプレッシャーもある。
この止まることなく働かせまくる労働環境、それが自分に合う人にはいいけれど、ついていけない人が多いから、こんなに「会社に行きたくない」「働きたくない」「人生に疲れた」とかいう言葉がネットにはびこっているのではないだろうか。
日本人は人生を労働に向けすぎていて、働きすぎて疲れきってしまっていると俺は思う。
下の記事でも書いたが、人生にはもっといろんな方向性があってもいいはずだ。
人生に疲れた……働きたくないけれど、無職やニートには世知辛い社会
だけれども、「働くばかりの人生に疲れた」と言って無職とかニートになっても社会の風当たりは強い。
仕事をしていない人、働かない人間は、「ダメ人間」の烙印を押され、社会から隔絶されたような気分にさせられる。
ニートとか無職とか、メディアにでてくるときは、ひどい扱いだ。
家庭内暴力とか、犯罪を犯すとかそういう場面での登場の仕方も少なくない。
そうなる人にも、家庭環境に問題があったり(つまり人生の最初のスタート時点で問題がある)精神的にやんでいたり、理由がある。
だけれど、そういうのはニートとか無職の人の一部で、多くの人はそうではなく、静かに毎日を営んでいるはずだ。
これもメディアの得意技で、できるだけ目立つ人たちにフォーカスを当てまくって、一定の印象を植え続けてきた結果、現在のニート・無職のイメージがある。
(意図しているのか、していないのかわからないが……)
そして労働していない人はどうしようもないという教えを、下の記事でも書いたように教育とメディアを通して刷り込んでいると俺は思う。
そういったふうに価値観というのは自然なものでなく作られるものなのだ。
こんな価値観が一般化しているのだから、自分が無職・ニートになったときに自分を卑下してしまう人も多いかもしれない。
都会ならまだしも、地方の田舎だと、「あの家の~はまだフラフラして……」なんて噂されることもある。
俺にも人生に疲れたという感じになって完全に無職だったときがあったし、噂が耳に入ったこともあった。
だが、たとえ否定してきた人がいても、そういうことを言う動機は、ただの話の種にしたかっただけか、自分のほうが優れているということを暗に言いたいくらいのものだ。
そういう無職やニートの状態を否定してくる人の言うとおりにして失敗しても、何の責任もとってくれないだろう。
だいたい、「お前は無職とかニートだからダメなやつだ」みたいなことを言われても、そう思い込むことで、自己肯定感は下がるし自信喪失につながってしまう。
そんな状態で仕事探しをしても第一印象のイメージが悪くなって、面接でも受かりづらくなり、負のループが続いていくだけじゃないか。
「あなたのためを思って……」なんて言いつつ、存在を否定してくるような人たちは、自分が自分の思う「善い人間」になりたいだけで、何をしているか気づいていない。
下の記事にも書いたように誰かを規定する言葉というのは、暗示をかけるような効果があるからだ。
働くばかりの人生に疲れたことで仕事をやめたのに、焦って何かを決めて、また失敗すれば、さらに自信がなくなって負のループにハマってしまう。
働きすぎて「人生に疲れた」ならば休んだりゆっくり考える時間も必要
働き過ぎて人生に疲れた。
無職・ニートになって何もしたくない。
労働するのが絶対の価値観になっていて働く時間が長い日本では、そんな気分になるのは当然だと思う。
だからこそ、ニートとか無職期間というのは、実は自分のこれからの人生において重要な時期なのかもしれない。
人生の進む方向をよく考えて舵をとり、人生の行路を大きく変える転換期だったと後々思うこともありえるからだ。
もしあなたが、今まで止まることを知らず、人生を走り続けてきて「人生に疲れた」と疲弊してしまった人であるとする。
だとするなら、あまり本格的に仕事を探しまわるよりも、適当にバイトでもしながら、自分の人生をゆっくり考えたり、興味のある本をよんだり、ときには旅に出たり、いろいろな生き方をしてる人にあったりして、自分の人生をゆっくり考えてみるのもアリではないか。
そんな時間が人生にはあってもいいと思う。
というか上でも書いたけれど、日本以外の国の人はこれほど否定されずに無職やニートをしている。
働くだけが人生じゃない生き方があっていいはずなのだ。
そもそも、そういう時間がなかったら、自分の幸せを考える時間もないのだから、幸せにも理想の生活にも近づくこともできないのではないか。
人生を軌道修正なしに行くのは、(そんな人いるかわからないが)最初からはっきりと自分の人生の先が見えていたラッキーな人以外はむしろ危険なのではないか。
無職やニートの期間というのは、その人が自分の人生の中で自分が幸せになるためにどうすればいいのかを考える時間を、長い人生のうちで、与えられるべくして与えられたのかもしれない。
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