生きていると欲望は常にわいてくる。
お腹減ったら、ご飯がたべたいなぁと思う。
コーヒーが飲みたいとか。
ちょっと甘いものが食べたいとか。
寒かったら暖かくしたいとか。
疲れたらやすみたいとか。
家にずっといたら飽きて外に出たいと思う。
人間は食べたり飲まなければ死ぬし、寒くて体温が下がれば体調も崩れる。
こういうのは生きるために必要な欲望なんだろう。
こういう欲望は、身体と精神が健康ならそれを満たすことはそこまで困難ではないかもしれない。
(そうでない人のために福祉がある)
だが次のようなものはどうだろう。
高級時計が欲しいなぁ…
もっとお金があればなぁ…
もっと認められたい…
もっとかっこいい(かわいい)、性格のいい彼氏・彼女がいればなぁ…
そんな風に今自分が持っていない何かを望むことは人間にはよくあることだろう。
欲望を満たしたら満足するか。
その後は多くの人が知っている通り、また欲望がでてくるのである。
なので満足しきることはない。
さらに何かが欲しくなる。
たぶんこの欲望というのは、人間に尽きることなく出てくるもの。
悟りを開こうとして、これをなくそうとしてもなかなかできない。
なぜなら欲望は自然なものだから。
だから、この類の生きるのに本来必要ない欲望・望みが実現しなくても、人間は失望する必要がないんじゃないか。
最悪は買い物依存……生きるのに必要のないものも欲しがる人間
別にそんなに高い家に住んでなくとも、高価なものをまとっていなくとも、生きることはできる。
誰かにすごいなんて思われなくても生きていける。
だけれど、人はそれが手に入らなくて悩む。
どうしても欲しい欲望が抑えられないと借金をしてでも買おうとする。
買い物依存に陥ることもある。
借金のために心が苦しくなる。
あるいは、もっと認められようとして偽りの自分を演じる。
そうやって自分を追い込むことになる。
本来必要のないものやことによって自分がどうしようもない状態になってしまう。
これは不幸の種になる。
こういう欲望が元にある不幸を防ぐには、ある一定度以上の欲望や望みというのは叶わないことが当たり前くらいに思っておけばいいんじゃないか。
(だいたい自己啓発本によくあるみたいに人はなんでも実現できると思うのは生物的にも傲慢だ。その実現によって他の生物は害を受けることが多い)
そうすれば無駄に落ち込んだりもしない。
もちろん、もともと金がある人は自分が欲しかったものを簡単に手に入れられるかもしれない。
容姿に恵まれた人は、自分の好みの相手と付き合うのも簡単かもしれない。
だけれど、現実はそうではないのだから、どうしようもない。
今すぐに、恵まれた状態に生まれ変わることはできない。
この世は不平等なのである。
その現実が目の前にある。
今あるこの現実しか自分には見ることができない。
死んだとしても生まれ変わるかも、そのまま消えてなくなれるのさえ俺たちにはわからない。
まあとにかく、「もっともっと……」という一定度以上の欲望・望みが叶わないとしてもその人は死なない。
コンプレックスや不満が買い物依存にもつながる
また、買い物をすることで、自分の中にあるコンプレックスや不満を晴らそうとしている場合もある。
その場合はたとえその買い物をしても、また次に何かを欲しがる。
この欲しがる原因は、モノが欠乏しているからでなく、自分の中の心理的な欠乏である。
それは買い物では埋まらないのだが、どうにか埋めようとしてモノを買うことで埋めようとするのが止まらないのが買い物依存症だ。
こういう症状は、いくら買い物を続けても変わらない。
買い物するくらいなら、原因を絶つためにカウンセリングにお金をかけたほうがいいだろう。
お金のある人たちでも「もっと欲しい」という欲望は止まらない
一方でお金や環境に恵まれた人たちを見てみよう。
彼らは一定度の欲望や望みが叶ってもさらに欲しがる。
そして、それを実現できない場合、そのいっそう恵まれた人たちを羨むだろう。
もっと~があったらなぁ…
結局は同じように欲望によって悩みを抱えるのである。
しかも、こういう類の人の場合、本質的にはその欲望はだいたいの場合無駄である。
だってそういう人たちは、すでに十分満たされているから。
人間が生きるのには必要ないものを欲しがっている。
本来必要ないものを欲しがって悩んでいる。
もう生きるのに十分な条件があるのにさらに無駄に消費しているに過ぎない。
地球的には負荷がかかりすぎる生き方。
その消費の分で生きるのがやっとな、本質的なものを必要としている人が生きられるのである。
だが、それでも欲しがるのが人間という生き物だ。
こうして考えてみても、欲望は満たしたとしても、また勝手に湧き出てきて尽きることないのだから、本来必要なものを欲した場合は勝手に欲しがらせておけばいいのである。
毎日その欲しいものについての情報をチェックしたり、人にあれがほしいとか話をしていればいい。
自分にほしいな~と思わせておけばいい。
別に自分の収入がないのが悪いのではない。
そこを責めるべきではない。
だって本来は必要ないものなんだから。
今後、もしかしたらそれが手に入ることがあるかもしれないし、手に入らないかもしれない。
尽きることない欲望が勝手にほしがったものなんだから、別に手に入らなくても気にしなければいい。
そのことで自分を責める必要は全くない。
何も悪くない。
だって絶対的には必要ないものなんだから。
どうしても欲しいならお金で買う以外の方法を考えてみる
生活を満たす一定度以上の欲望が止められないなら、それをすぐにお金で買う以外の方法を考えてみるのはどうだろう。
自分がすでに持っているもので工夫するとか、あるいは自分で作ってみるとか。
自分で作ってみるのには材料が必要だが、その材料の値段を自分で調べてみればそんなに高くはないことがわかるだろう。
ほとんどの人は、この世の多くのものが本当にどれくらい価値のあるものか知らないで買っているのが現状なのだ。
高いと思っていたものの原材料の価格を知って、それに本当にどのくらいの価値があるのか改めて考えることができる。
俺は昔引越しをしたときに、本棚が欲しいと思ったときがあった。
そのときに、すぐには買わずに引越しで余っていた段ボールを加工して簡単な本棚を作ったことがある。
段ボールも3枚くらい重ねるとけっこうな強度になる。
それを組み合わせて3段の本棚を作った。
作ってから3年くらい使っているが、今でも使えている。
本棚なんて今ではそんなに高いものではないが、それでも自分で作れるんだなということを知っておくだけで、生きることに対してただの受動的な態度から変わってくる。
また、こうやって自分自信で工夫して作ってみるという体験を繰り返すことで、新たなものが生まれる可能性がでてくる。
ただ作られたものを消費している側の人間から、何かしら考えて作りだす方の人間になれるかもしれない。
「もっと欲しい」という欲望によって想像される未来像は虚構
欲望はさらに勝手な未来を想像させる。
それを手にすることで、人の見る目が変わるとか、毎日の感じ方が変わるとか。
だけど、それが手に入っても、自分が思っていたように未来は変わることは今まで生きてきて実感としてもほとんどないのではないだろうか。
欲しいものを手に入れても、その嬉しさはすぐに薄れていく。
手に入ったものが自分の毎日の当たり前のものになってしまうことで。
大金だして気に入っていたものでさえ、日常に組み込まれることで特別でもなくなる。
結婚して、夫や妻と一緒にいたくなるなんていうのはよくあることだ。
また、止まらない欲望が欲しがらせたモノが本当に自分に必要かは別の話。
その人に本質的には必要ないことも多々ある。
本来必要ないものを欲しくなっているのだから、勝手に思わせて、ああまた欲しがってるなと思わせておくくらいでいいんだと思う。
だからといって常に最低限で生きろなんて言っているのではない。
買える範囲なら買ってもいい。
俺も、そんなに無理して買わない生活はしていない。
だが、本来必要のないものに借金までして買うようなことはしないほうがいいと俺は思う。
必要のないものに対して借金をしてまで買おうとしているのは買い物依存の始まりなんじゃないか、と俺は思う。
どうでもいいもののために働きたくもないのに働いて苦しむのは無駄だ。
しかも買った喜びはすぐ薄れるし、またほかに欲しいものがでてくる。
この現代の日本で「買う」という行為で未来がバラ色になることはもうないだろう。
そう考えると欲望っていうのは一夜の夢みたいなものなのかもしれない。
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