高校や大学を卒業して週5日、あるいはそれ以上働くのは多くの人がしていることだ。
それがライフスタイルの基本をつくって、さらに世間一般の価値観を形作る要素となっている。
生活費は週5日働く人の収入を基準に考えられているし、それに基づいて商品の値段も決められているのだろう。
そういう世間一般の価値観を逸脱する行為は、多くの人から距離をとることになる。
歩けば歩くほどに、少数派になっていく。
多くの人からみたら、今まで勉強して得た学歴を無駄にしたし、もらえたかもしれない収入を考えたら「損したな~この人」と思われるかもしれない。
今回は俺が実際に「働くこと中心の人生を逸脱したことに後悔がないのか」ということについて書きたいと思う。
無理に働かない人生の選択をして起こること
同じ世代の人と収入には差がつく
普通に週5日会社に行って働く人に比べたら、俺は給料は何分の1かくらいだ。
大学のとき友達だった人たちは、けっこう給料をもらえる会社に行ったので、そいつらに比べれば本当に少ない。
中には最初から初任給の2倍くらいもらっている人もいたくらいだ。
同じような道を進めば、金銭的には安定していただろう。
金銭的な問題としては、週5日働くという世間の価値観をドロップアウトすれば、その分働かないのだから収入に差が出るのは当たり前なのである。
ここを否定して、働かないのに収入だけを大きくしようとすれば、怪しい仕事だったり、人に損させるような仕事だったり、仕事の内容自体に何かしらの無理がでてくるだろう。
そんなこともやりたくはない。
無理に働く選択をして自己嫌悪していたことに気づいた
俺は都市部で通勤の電車は乗りたくない。
もともと人混みが好きじゃないので、あのぎゅうぎゅうに人が詰め込まれた空間が苦痛で仕方がなかった。
さらに一日のほとんどを仕事に費やす生活になって、時間が無くなり、外食が基本で、どうやってできたのかもわからないものを口にする生活はしたくない。
実際にそういう生活をしたときもあった。
社員ではないが自分に合わないオフィスの仕事で週5日働いていたのだが、どんどん自分が嫌になっていった。
自分らしくないことをやっていると「あぁ、こんなのは俺じゃない」というふうに、どんどん自己嫌悪に苛まれてしまう性格なのだ。
昔、自分が好きでもないことをお金のためだけにやっていたときは、今の自分の精神状態がよくなくなるので、俺の場合は無駄に消費に走ってしまうという症状が出たりした。
20代の最初の頃などは、今に比べればかなり無駄な出費のある生活をしていたと思う。
生きるのに何が必要なのか、さらに吟味するようになった
自分がよくわかっていなかったので、何が本当に必要なのかもよくわかっていなかった。
歳を増すごとに、自分はこういう人間なのかというのが、少しずつわかってきたのか、必要ないものを買うことが少なくなった。
(まあ、自己なんてものは、思い込みで「自己暗示」みたいなものだから、暗示が歳をとるにつれて強くなったのだともいえるが)
たとえば、服や靴にしてみても、昔は自分がよくわかっていなかったので、体系や自分の雰囲気を無視したものを着たり、流行に左右されたりしていたが、今は自分に似合う感じの服への理解が前よりは深まり、ただかっこいい服というより、モノがしっかりしているもの、自分が着てしっくりくるもの、着心地がいいものを選ぶようになった。
服と同じように、無理に合わない人とも付き合うこともなくなった。
昔は、いろんな人がいて、いろんな考え方があるんだから、自分が合わないと思う人でも我慢して無理して理解しようとはしていた。
だけれども、磁石のS極とN極というのがこの世に存在するように、引き合わない反発するような関係というのも自然なものであって、それを無理にくっつけさせようとすることが不自然であると最近は考えるようになった。
S極とN極のような反発するような関係を無理にくっつけさせようとしても、無理な力が必要になるし、結局離れてしまうものだ。
人間だって他の生物や物質と同じで、人生をかけても他の個体全部に出会えないくらい存在しているんだから、あえて合わない人とくっつこうとしなくていいと思うようになった。
現在、10年前に無理にあわせていたような人間は俺の周りにもういない。
結局は生きるのには無理に合わせるのではなく、自分に合ったものだけを吟味して残しておけば問題はなかった。
これは、人間関係だけでなく、所有物や食事に行くような場所まですべてのことにいえることかもしれない。
世間一般に無理に合わせる必要がなくなったので、ストレスが減った
そういう意味では大学までは、自分自身かなり無理をしていた。
家は居心地悪かったし、学校だって今考えれば、無理してどこかしらのグループに属していた。
高校までは家を出て自活するような力もなかったし、学校でもあの頃はやたらに人の目を気にして、1人でいるという選択をすることはほとんどなかった。
学校でやる勉強を好きではなかったのにも関わらずやっていたのは、人生というのはつまらないことをやらないと「社会に認めてもらえない」と、親にも学校からもいろいろな術をつかって刷り込まれていただけだったんじゃあないかと今では思う。
あの頃は大人が大きすぎた。
大人は、何でも知っていて、世界のあり方の全てをわかっているのだと勘違いしていた。
現在の地点から見れば、何でも好きなことを突き詰めていくと、それが様々な分野につながっていくのだから、あえて無理に暗記のようにして小さい頃から知識を暗記させるようにつめこんでいかなくてもいいじゃないかと思うし、結局ああいう風に勉強して得た知識は、ほとんど忘れてしまったので、あれだけの時間をつかって暗記した意味があったのか疑問だ。
興味があって、自分から進んで本を読んで得た知識の方が、現在でも覚えているし、自分の考え方にも影響を与えているような気がする。
自分の好きでもないことをやっていても、効率は悪いのは誰もが経験していることだろう。
好きでもないことを仕事にすれば、無駄にストレスも溜まる。
好きでもないことを延々とやらされていれば、感覚が麻痺して、何が好きなのかさえもわからなくなる。
そうなると結局、本当の自分自身がみえなくなってしまう。
俺個人の経験では、多数の側、社会の側に従い続けているだけでは、自分自身から遠ざかってしまうだけだった。
自分自身を置き去りにして、お金を得るためだけに生きていても、なにか虚しくなってきてしまう。
たしかに、大多数の人間が共有している価値観に合わせていれば、生きるだけなら受動的になれるし楽かもしれない。
でも、俺はどうしても精神的に満たされなかった。
大多数の人間と自分のもつ価値観が同じだったら、何の疑問もわくこともなくスムースに人生も運ぶのだろうけれど、この世界にはなぜか、そういう人間とは違った人間も生まれてしまうのだ。
最近ではドロップアウトするのも運命だったのかもしれないなぁと思うようになっている。
無理に働かない人生の選択をしたことに後悔は?
世間一般の「普通」に合わせた価値観を逸脱し、無理に働かない人生の選択をしたことに後悔はない。
そうしていたらストレスでくたばっていたかもしれない。
今考えれば、それまでの生活に何か違和感を抱えていたから、海外へ1人旅に出かけたのだろうし、帰ってきて就活するのをやめたのだろう。
また、大学で専攻していたわけでもない心理学関連の本になぜか関心が出て読み始めたのも人生に違和感があったからだろうし、世間の価値観からドロップアウトした人生を歩むいろいろな人たちに会ったのも、そういう人を自分が求めていたからかもしれない。
最初の頃は、本当にこれでいいのかなぁという不安がもちろんあったが、今ではやっぱりこれなんだなと思えるようになっている。
まぁ今も上手くいかなくて落ち込むことがけっこうあるけれど、それはおそらくどんな道を歩いていても起こることだ。
「客観」という言葉は、現代の文脈では常に「主観」に勝る概念となっているけれど、自分の生きる道を偏差値や収入などの「客観」的基準だけにあわせていても、どうしても満たされない部分があるのは俺だけじゃないだろうと思う。
「客観的」基準によって「自分は~である」と自己認識するのも1つの方法ではあるが、それだけだと自分が本当に求めているものからは遠ざかってしまうこともけっこうあることなんじゃあないか。
自分の中にも外の世界と同じくらい貴重な世界が存在しているはずだ。
人生を生きるうえでは。
もう、自分に合わないものは合わないんだから、仕方ない。
合わないならそれを捨てて、自分に合った人生の道を自分なりに開拓していく。
20数年、進む方向を間違えていたのだから、人生の方向を修正するのも大変なことであるが、やるしかなかったんだろうと今では思っている。
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