俺は一人暮らしで毎日自炊をすることにしている。
材料の買出し、帰ってご飯を炊いて、おかずを作って、食べる、ということを毎日繰り返す。
自分で選んだ食材を食べたいし、ヘタに外食するより自分で作ったほうが美味い場合も少なくない。
食費も安くすんでいいことづくめだ。
これは同居する人が多いほうがよりコストダウンにつながるだろうが、一人暮らしでも作り置きなど工夫すれば、外食やお弁当を買うよりはずっと安く済む。
お金だけが目的の仕事ではできるだけ働きたくない俺としては、節約は常に心がけるべきことだ。
だけれど、疲れているときとか、何もかもをやるのが面倒になるときもある。
自炊もやる気がなくなったり……
そういうときは、「自炊をする」という縛りを解いて外食ですます。
朝、どこかでパンを食べて、昼食なら喫茶店かカフェ、夕食なら定食屋というふうに。
お金がないときは、松屋とかにもいっちゃうし。
全部自炊っていうふうに完璧をめざそうとすると、自分が苦しくなってしまう。
昔の俺は、勝手に理想的なイメージを頭の中で思い描いてしまい、そのイメージ通りにいかないと自分で自分にがっかりしてしまうことも多くあった。
完璧主義を完璧に遂行できるのならいいのだけれど、そんな人はいるのだろうか。
俺はまだそんな人に会ったことがない。
完璧主義で満足するのは自分の意識だけなのかもしれない。
20代の頃に自分を省みる機会を比較的多くもてたので、そのときにこの癖から少しは解放された。
身体が疲れているときがあるのも事実だ。
それを無視して、自分の意志だけを貫いても、身体の疲れは蓄積してしまう。
身体が疲れていて今すぐにでも布団に入って寝てしまいたいのに、「完璧にやらなきゃ……」と自分の身体にムチ打って、自炊をして、風呂に入って、歯を磨いて……なんてことを毎回やっていたら、身体が「もう無理です」といじけてしまうこともあるんじゃあないか。
たしかに全部できたときには達成感はあるけれど、寝てしまったときの心地よさにも、すてがたいものがあるし。
この「心地よさ」というのは、その瞬間に一番身体が求めているものなのかもしれない、なんて思うこともある。
意識ばかりで自分をコントロールしようとすると無意識の「反逆」が起きる
外食だと、産地とか選べないから、できるだけしたくない。
俺は、収入が少ないにも関わらず、そういうとこに気を使ってしまう。
でも面倒で何もしたくなくなるときが定期的にやってくる。
その気分を全く無視して無理してやっていると、自分で知らないうちに身体や自分の意識下にある無意識の気分を害してしまうようだ。
人間の意識では自分自身全部をコントロールすることはできない。
血の流れや呼吸だって、意識して制御しているわけではなく、自動的に制御されている。
疲れているのに、休みをとらなければ、風邪を引いたり、身体のどこかを壊したりする。
意識で、自分の気持ちも無理ばかりしていれば、身体にも、無意識にもそっぽを向かれる、なんていうことが起こるとも考えられる。
実際、俺は無理して何かをやろうとしたとき、後で身体の調子が悪くなったり、気分的に落ちることもある。
自分で考えることを、コントロールできるように思う人もいるかもしれないが、何も考えないということはかなり難しい。
たとえば、瞑想をやってみるとわかるが、考えというのは次々に湧いてくる。
閉まらない蛇口みたいだ。
この蛇口の開け閉めをコントロールできる人は、かなり少数だろう。
こうやって考えてみると、意識ですべてをコントロールできるという考え自体がかなり傲慢なものだとは思えないか。
書店で目にする本の言説やマス・メディアで言われていることの中には「何事にも節制して頑張ること」を説くものが多いが、我慢して毎日自分にムチを打つような厳しい生活を毎日やっていると、自分のコントロールできない部分が不満を漏しだす。
しらないうちに「ストレス」みたいな形で蓄積して、思わぬところで噴出しかねない。
何かよくわからないけれどイライラしたり、気分が下がったりするのは、自分の制御できない部分が反応している証拠なのかもしれない。
同じことをずっとやっていると、そのルーティンをぶち壊したくなる衝動がでてくるのも、意識下では「つまんない」と不満が募っているとも考えられる。
なので、たまには「こうせねばならない」みたいな意識のコントロールを外してあげることも必要なんだろう。
毎日、自炊するという縛りを解いてあげるのも、俺にとってはその一環だ。
ちょっとした出費になるけれど、それで少しは気分がよくなるならいいでしょう。
節約してお金を貯めることで自分を縛りすぎても辛い
「お金は目的ではなく手段だ」というのはよく聞く話だけれど、お金を稼いだり、貯金したりすることにばかり目がいってしまったら本末転倒。
人間には「実は現在しかない」という考え方もある。
未来と過去というのは、現在にいる自分が考えた概念で実態はない。
そんな感じのことをジョーイロットという人の著書『これのこと』に書いてあった気がする。
そう考えてみると、先のことばかりでなく、たまにはこの「現在」のためにお金を使って、人生という作品の内のサイドストーリーを作ってみるのもいいんじゃあないだろうか。
質問や悩み相談したい人