身内の不幸で日常が一変した。「祖母の死」で喪に服す中で見えた日常に隠れた無数の悲しみ。

スポンサーリンク

しばらく、記事の更新をしていなかった。

やる気がでなかった。

内側から力がわいてこない。

外にでて日常の風景を見ていても、自分の心の状態とのギャップに呆然としていた。

そんな毎日をすごしていた。

あるきっかけがあったからなのだけれど。

端的にいうなら身内の不幸。

集中治療室で、心拍数がゼロになったときの「ピーッ」という音とともに、死亡時刻が主治医から告げられた。

俺は呆然としていたが、一緒にいた親族が葬儀屋に連絡していた。

死化粧が済んだ遺体を葬儀屋の車にのせて、実家へ。

神棚には白い半紙で神棚封じがされ、仏壇は閉じられた。

玄関には異様な存在感のある忌中の札。

遺体を家の中に入れて、いつも寝ていた部屋へ置く。

喪の雰囲気で家中が覆われた。

うちは家族が半分崩壊しているのだが、今回は俺の育ての親に当たる祖母が死んだ。

これで俺の家族と言えるような人生の時間を共にしてきた家族はほぼいなくなった。

実家の居間にはもう誰もいなくなってしまった。

祖母は俺の人生で一番長い時間を共に過ごした人かもしれない。

自分と関係する人が死ぬという出来事は、その関係が深ければ深いほど、心理的に影響するものだ。

今まで生きてきた中で、俺の人間関係の中でもすでに何人か亡くなっている。

そのたびに喪失感はあった。

その喪失感は時間が解決した。

日常を生きていく中で、だんだんと過去のものとなった。

だけれど今回死んだ祖母は、俺の人生の人間関係の中で、最も時間を共にしてきた人だ。

1人暮らしをしているので、そんなに頻繁に会っていなかったが、目の前にいなくても、どこかにその人が生きているというだけで、どこかで安心感のようなものをもらっていたに違いない。

それが俺の毎日の日常をどこかで支えていたのだろう。

そんな人が俺の目の前に見えている世界からいなくなってしまった。

ついこの間まで元気だったのに、突然に存在が消えてしまった。

人間を根底で支えているのは様々なものとの関係性だ。

それが大きく欠けてしまうと、簡単には埋まらない。

自分の中に俺が人生をかけて描いてきた大きな絵があったのに、その一部に大きな穴が空いてしまった感じ。

それくらい祖母の死が大きな出来事だったので、やる気もでないのも当たり前なのだろう。

喪に服すということを十分にやろう。

これから、この穴が空いてしまった大きな絵を時間をかけて修復していくことになる。

穴が小さくないから時間がかかるのだろう。

そして、その絵を修復した後、元の絵とはまた違うものになるんだろう。

スポンサーリンク

身内の不幸、祖母の死で喪に服すことで再確認した日常に隠れた無数の悲しみ

さっき、外にでて散歩をしていても、その風景と自分の内面とのギャップで空虚な感覚になるということを書いた。

自分にどんなことが起こっても世界は廻り続ける。

だけれどよく考えてみれば、毎日いろんな場所で多くの人が死んでいる。

そしてその亡くなった人たちと関係のある人には深い悲しみが生じている。
(人生はいろいろあるので、そうでない場合もあるだろうけれど)

人の死だけではなく、裏切りや、離別などの悲しみも、毎日数え切れないくらいこの世界には生まれている。

そういう負の側面というのは、私たちが見ている世界の前面には出てこない。

悲しみを抱えた人たちは、心に深い傷を負った状態で、わざわざ表の世界に出てくることは少ないはずだ。

外の世界では、そういう悲しみは背景の見えないところに隠れている。

俺たちの見ている世界の前景には、無数の人たちの日常がある。

毎日同じように会社や学校や食材の買出しや喫茶店や散歩に向かう人たちや、楽しそうに何を食べようかとか話ながら歩いている人たち。

おれ自身だって、普段はなんていうこともない平凡な毎日を送っている。

だけどその背景には、たくさんの悲しみが息を潜めて隠れている。

今見ている目の前の世界には、喜びや毎日の平坦な感情以外にも、そういう悲しみが何層にもなって存在していて、日常を影で成りたたせる1つの構成要素となっている。

これは当然のことだ。

当たり前のこと。

だけれど、普段はそういうことを忘れている。

今回の身内の不幸、祖母の死で喪に服す中、改めてそういうことを実感したとともに、日常の風景が以前よりも多層的に一層よく見えるようになったかもしれない。