人生には、ついてないときや不幸や不運に突然遭遇することもある

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年末ギリギリで退院になり年末年始は、家で1人過ごした。

クリスマスを病院で過ごすのは、どうってことはなかったが、年末年始をあの味気ない病室で過ごすとなると、退屈というか物寂しいというか。

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退院できたことだけ考えるなら不運の中にも幸運があったとも言えるのかもしれない。

地元に帰って友人と会おうとか、それなりに計画していたが、そういうのも全部白紙となった。

そもそも病気にならなければよかったのに、とか思ってしまうが、これが現実だ。

あのとき、~したのが悪かったのか、とか考えて反省もしたが、今回のは原因もよくわからないので気をつけようもない。

しかし、ネガティブな体験をすることで、今までなんでもなかったことをポジティブに感じる。

動けなくなったときの状況を自らの身をもって体験することで、自分の身体を自由に動かせることでさえ喜びになる。

何かの差や比較でしか、人は現象を意識することができない。

暖かさを感じるにはそれより低い温度が、幸福を感じるには不幸がないと、それをそれとして意識できない。

幸福だけ感じて生きていたいのは多くの人の願いかもしれないが、人生そういうわけにもいかない仕組みになっている。

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毎日、元気に過ごしていても、突然にしてどうしようもない不運や不幸はやってくる

毎日、ご飯が食べれて、動けて、寝ることができるというのは、ごく当たり前のことかもしれないが幸運の下地の上に成り立っている。

これは、今回だけでなく、今までの人生でも何回も感じることがあったが、中高生の頃、家族の問題で、俺の生活も精神状態もめちゃくちゃになったときが初めてだったろうか。

あのときも、夜には寝れなかったし、食欲もあまりわかない時期が長く続いた。

俺自身、まだ社会の仕組みをよく知らなかったし、大きな問題を解決する力もないときだったので、ほとんど何もできず、問題は深刻化していくばかり。

かろうじて親戚に助けてくれる人がいたので、新聞に載るような事件にならずに問題はどうにかなったのだけれど、このときに人生で初めて、食べて寝て生きれることがいかに幸せなのかを感じた。

(それでも『最貧困女子』という本にでてくるような圧倒的なまでの不運の生い立ちというほどではないが)

その後も、何度かそういう辛い時期があったけれど、ここ数年は大きな問題もなく過ごせていた。

今回、突然病気になって、再びこの時のことを思い出した。

不幸とか不運というのは、原因が明らかにあることもあるが、自分ではどうにもならない不条理なことも突然にしてやってくる。

それによって、なんともなく歩けていた人生の道を歩けなくなることもあるのだ。

今回の病気なんて、あの昔の状態に比べればずっとマシだけれど、なんともなく毎日を生きている状態というのは、普段は意識しないが幸運なことで常に危ういバランスの上に成り立っているんだなぁと、改めて思った。

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どうしようもない不幸・不運を経験した人にしかわからないこともある

家族による不運とか、原因不明の病気とか、突然の事故とか、自分の力ではどうにもならない大きな不幸とはほとんど無縁の人も意外といる。

いくつかの宗教では、こういうことに「前世からの縁でそうなっている」という理由づけをするのだろうけれど、「科学という見方」が普及した現代ではそういう話では納得しない人も多い。

その見方で言うなら、そういう自分の力ではなんともならない不幸から無縁の人は、なにかよくわからないけれどラッキーなのだろう。

俺が今生きてる世界を元に考えるなら、そうとしかいえない。

「人生、最後はプラスマイナスゼロだよ」と歳の離れた親戚から言われたこともあったが、「はい、そうですね」とは返せなかった。

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では自分ではなんともならない不運がやってきてしまう人は、ただ損をするだけなのか。

得るものがあるとしたら、それは「共感の力」なのかもしれない。

自分ではどうにもならない不幸を体験した人は、他の人がそうなったときにも、その辛さと痛みを共感する素地が養われると思う。

とにかくラッキーな人たちには、この共感の素地が薄い。

口では共感しているようには言えるけれど、 自分で体験していないため、傷や痛みを深いところでわからないのだろう。

世の中に散在している苦しみというのを、自分には関係ないものだと思ってしまう人もけっこういる。

何か大きな事件が起こっても、それはその犯人が悪かっただけで、自分には関係ないことだと思う人が多いように。

だから俺は、どうにもならない不幸にぶち当たってしまったときでも、ほとんど誰にも話をしなかった。

話をしても、結局はわかってくれていない、と思っていた。

しかし、人生には偶然もあって、たまたま同じような不幸を体験している人に出会うこともある。

どうしようもない痛みを身体に刻んできた人たちは1つの頷くにも重みが違う。

もちろん全部を理解してくれるとは思わないけれど、投げたボールをスルーされるのではなく、しっかりと受けとめてもらえている感じ。

深い共感をもらえたときは、涙がでてくるくらいに感情が揺り動かされて、身体に縛りこめられた行き場がない気持ちが少しだけ解放されるような気もする。

あぁ、こんな人たちがいてくれてよかった……

深い傷は負わないにこしたことはないと思うが、傷を負わなければ理解できないこともある。

そして、そういう人の共感で救われる人もいる。

たくさんの人生の明暗が、他にはどうにも存在しえないバランスでこの世をならしめているのかもしれない。

俺の人生の明かりも今そこにかすかに灯っている。

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