会社・仕事をやめたいのに辞められない理由とは。つまらない義務教育と関係?

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電車で気分転換に遠くに行った。

車窓から畑がよくみえるくらい、都会から離れた駅について、隣に中高生くらいのが女の子が座った。

カバンから書籍をとりだす。

問題集だった。

早速、ページを開く。

細胞の図が描いてある。生物か。

もう一つ、ノートをとりだした。
すでに問題は解いてあって、女の子は間違えたところをチェックしはじめた。

あぁ、俺もこんなのをやった覚えがある。

中高生の頃の自分を思い出した。

あのときは、自分の世界がすごく狭くかったし、やれと言われたことをやるしかない状況だった。

いい点を取れば、親は悪い顔はしないからやっていた。

家と学校くらいしか、自分の属している社会がなかったから、その中でうまく立ち回るしかなかった。

自分で物事の判断をするほど経験も知識もなかった。

何年間も義務教育で強いられた勉強の意味はなんだったんだろう。

テストに出そうなところを暗記しただけで、テストが終わればすぐに忘れてしまった。

今は、あの女の子が勉強していた問題集に出ていた生物の仕組みなんてほとんど覚えていない。

あの時やっていたのは、結局、いい学校に入るためだけの勉強だったのだろうか。

理解したいなんて欲求はなかった。

ただ、点数をとって、学内で少しでもいい順位をとり、受験に少しでも有利になることを目的にしていただけだ。

そうすることでしか、親に褒められることもなかった。

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学校教育がつまらないのと、会社・仕事を辞められないことは関係している?

教育は、子供の可能性を拡げるためにある?

本当は閉じさせてはいないか。

あの頃、興味があったのは、勉強なんかじゃあなく、音楽やファッションだった。

自分が好きなことを勉強する機会は、義務教育にはまったく組み込まれていなかった。

カナダなんかでは、義務教育でも、「ナイキの靴は高いのは、広告料が価格に加えられているからで、元値は本当はかなり安い」なんてことを、メディアを理解するためのメディア・リテラシーを教育として行っている州もあるらしい。

こういうことについては下に紹介する本に書いてある。

スポンサー料と、マス・メディアの関係で、すべてのメディアは中立公平なんかではなく、それぞれの意図があるというメディアの情報を理解する上での必須の基本もこの教育には組み込まれているようだ。

こういう事例をみると、テレビやネットがこれだけ毎日に浸透しているのだから、文字だけに特化した勉強ばかりでは時代遅れといわざるをえない。

だけれど、先のメディア・リテラシーみたいな自分の生きている社会とリンクした教育を義務教育で受けた覚えはなかった。

代わりに一日の大半の時間をつかってやらされるのは、俺の場合は興味のわかない勉強だった。

いい学校に行って、良い企業に就職するために。

そうすれば幸せになれると、暗にほのめかされていた。

それが本人の希望とは関係なくとも、今は我慢してやれば、将来幸せになれると。

(今考えれば、つまらない勉強して、本当に興味のあることから遠ざかり、本当はたいして興味がないのに待遇がよいからという理由で会社を選び、興味のない仕事をやっていても、幸せとは遠ざかる気がするのだけれど)

だいたい、将来幸せになれるかどうかは、未来を見通すことのできる超能力者でないかぎりわからないのが本当のところだ。

しかし、10代の前半のこどもには、親にはなかなか逆らえない。

親はまだ最も身近な大人であり、養われているがゆえ、言うことを聞かざるをえない。

(めちゃくちゃ強い人は、家を出て自分ですべてやっていく人もいるんだろうが)

会社・仕事をやめたいのにやめられないのは、義務教育と学校での洗脳が原因?

親が子供の内面に理解のある人だったらラッキーだが、そうでなかった場合は親の考えを押し付けられる。

こうして、小さい頃から延々と勉強をさせられることになる。

まれに学校の勉強を好きな人もいるかも知れないから、簡単には言えないけれど、義務教育と称して好きでもないことを長期間やらされ我慢を強いられる。

体育では、前習え。
直立し手を伸ばさせて、堪えがたい姿勢を強制する。

それから前習え!その掛け声とともに、一斉に手を前にまっすぐだし、直れ!の掛け声とともに一斉に下げる。

体育教師の命令は絶対。

逆らわないで従順なほうが得をするという姿勢をこの頃から刷り込まれる。

好きなことを我慢して、たいして興味のない勉強をして、いい大学に入って、いい企業に就職して。

そこからも、やりたかったところに配属されるとも限らない。

いつか、報われる、そうやってまた延々と我慢を強いられる。

(いい企業に就職して、家族をもって、マイホームを持って……というのが「幸せ」だと思っている人は我慢すれば「幸せ」になれるのかも)

いつかお金を貯めて自由になる。

そうやって、いつのまにか歳をとり、やりたかったことをやるにもいつのまにか気力が衰えている。

いつのまにか人生は、終盤にさしかかっていく。

こう考えてみると、現在の学校での勉強というのは、我慢に慣れさせて、企業にとって都合の良い働き手になるための訓練として、効率の良い方法なのかもしれない。

あるいは、政治で、国民にどんな理不尽な政策が実施されようと、「どうしようもないし我慢するか」、という聞き分けのいい従順な人間にするための訓練なのかもしれないとまで考えてしまう。

自己を押し殺して我慢して、何か大きなものに利益を還元することが幸せにつながるのか。

何か変だ、順序が逆だ。

自己実現を通して、その人間は幸せになって、そういう人間が増えていくことで社会に利益が還元されるのが自然なのではないか。

俺が義務教育を受けていたころからは、10数年の時間が過ぎた。

今も「教育」と称してやっていることは何も変わっていないのだろうか。

電車の中でそんなことを考えていて、ふと目をやると、隣の子は問題集を開いたまま、赤い下敷きで答えを隠し、正確に覚えているかチェックしていた。

働きたくないのに会社でなぜ働くのか? 仕事の「我慢」には洗脳が潜んでいる……
人間は、毎日、同じように毎日同じことを繰り返しているほうが楽らしい。 朝起きて、顔を洗って、食事を食べて、準備をして、会社に行って、仕事をして……というルーティンを毎日繰り返しているのがほとんどの人の生活だろう。 「機械と違うんだ!もっと有...
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